2004年、Aは久しぶりに故郷のジャフナに向かった。ジャフナは戦闘を繰り返したLTTEの独立支配地域になっていたが、2年前に中立的な地位にあるノルウエー政府の仲介によって停戦協定が締結されており、往来の安全は保証されていた。Aはスリランカ軍とLTTEの二重のチェックポイントを越えて故郷に入り、2週間ジャフナに滞在した。それが大きな問題の始まりだった。コロンボに帰る際にLTTE側の「国境」で止められた。兵士はAのことを全て知っていた。会社のことそして家族のことも。
「ジャフナで生まれたタミール人ならば、お前は我々を助けなくてはいけない。コロンボでLTTEのためにアジトを用意しろ」
関わりたくなかった。その場はやり過ごし、コロンボに帰るとすぐに電話番号を変えた。
2006年になっていろいろな問題が起きた。
Aと親しいタミール人の友人がスリランカ北部に行くことがあり、LTTEの検問を受け、そこでAの状況や、LTTEへの協力の可能性について問われたという。友人はコロンボに戻り、Aに国外に逃れたほうが良いこと、そして友人自身も妻をスイスに出国させたこと、自分も国外に逃れるつもりであることを伝えた。
当時、LTTEに非協力的な人物はテロによって次々と消されていた。それを恐れて最大のタミール人政党のTNA(タミル国民連合)の穏健派の国会議員でさえ、LTTEには面従腹背の姿勢を貫いていた。一民間人などは狙われればたやすく殺されてしまう。実際、Aの知人は7月にLTTEの活動家に銃で撃たれて絶命した。
悲劇は続いた。しばらくすると義兄が暗殺されるという事件が起こった。義兄には、この友人からの話を受けて海外に逃れる相談をしていたところだった。痛ましい殺害事件だったが、Aは、この義兄殺害について疑いをかけられた。こう回顧する。
「お前がLTTEの意を汲んで殺したのではないか、と親戚に直接言われました。悲しいことにその地域の人たちは皆、私を憎んでいました」
周囲の反対を押し切って婚姻関係を結ぶほどにシンハラの妻を愛していたAは、義兄の死を心から悼んでいた。そんな気持ちまで踏みにじるような中傷に身体が引き裂かれる思いがしたという。それでもコロンボには妻子がいて従業員もいる。責任を考えると理不尽な取り調べやいわれのない中傷にも耐えるしかなかった。
この2件の殺人事件は、まるでAに対する予告のような出来事だった。タミールとシンハラの過激な活動、いわば赤色テロと白色テロどちらからも疑われ、狙われていることを嫌でも自覚させられた。民族対立の狭間に置かれて苦しみ抜いた。いっそ、旗幟鮮明に一方の勢力に忠誠を誓えば、楽になったかもしれない。しかし、誇り高いAは思考することをやめない人間であることを望んだ。被害者にもなりたくない、そしてそれ以上に加害者にもなりたくなかった。いずれにしても明確になったのはもうこの国では暮らせないということであった。
「子どもたちが学校に行っていたから、彼らのためにもテロに協力はしたくなかったのです。脅迫されてもLTTEのサポートを断固拒否した。その結果、命を狙われました。一方でもしも協力していたら、逆にスリランカの軍や右翼から敵視されて家族全員が捕まって拷問の上、殺されていたでしょう。私は平和を愛する者として暴力を否定し、公正で中立にいたかっただけでした。しかしそのことで、両者から責められたのです」
本来であれば、Aと妻は民族共存の象徴とも言える夫婦であり、ただ憎悪を遠ざけたいという姿勢を貫いたに過ぎない。ところが、大きな問題を孕むスリランカの政治状況はそのことを許すどころか、生命の危機を招いてしまう。警察や軍からはLTTEシンパとして目されて逮捕の危機にあり、LTTEからは裏切り者とマークされて殺害の恐れがあった。
Aの2人の兄はすでにカナダで難民認定を受けていた。それを頼ってトロントに向かうことに決めた。子どもたちには「必ず後から呼び寄せる」という約束を施した。祖国を出るにあたり、散々苦労して貯めた私財を整理した。300ミリオンルピーで購入した土地や家屋は二足三文で買いたたかれた。悔しくてたまらなかった。実業家として築いた地位を捨てなくてはならないのだ。2006年、25人以上のタミール人が政府の民兵組織に誘拐されたこの年、Aはブローカーに国外亡命の手配を依頼した。ブローカーは太平洋回りの航空券とカナダの偽造パスポートを用意してきた。ルートは、コロンボから、シンガポール、名古屋を経由してアメリカに渡り、最後にカナダに入国するというものであった。
9月、出国は無事にできた。想定外のことが起こったのは、シンガポールの次のトランジットである名古屋の中部国際空港であった。通常であれば乗り継ぎの航空券のチェックだけのはずが、パスポートのチェックが行われたのである。偽造であることが分かってしまった。名古屋の入国警備官はAを中部国際空港収容場に収容した。たられば、は意味のないことだが、もしもそのままカナダに向かうことができていれば、政治難民に寛容な彼の国で受け入れられて、兄たちと新しい生活を築いていたはずである。落胆は大きかったが、カナダに渡ることは諦め、Aはそのまま日本で難民申請することに方針を切り替えた。2006年10月2日、入管に対して難民認定の申請を行う。悪い判定は1ヶ月と1週間後に出た。11月9日に難民不認定処分が下されたのである。Aはその報を中部国際空港からほどなくして移収された西日本入管で告げられた。同時に強制帰国を言い渡されたが、スリランカに帰れば、逮捕されるか、拉致されるか、どちらにしても殺される可能性は高い。命の危険がなければ自らの財産を処分などしない。2007年に国に対して不服提訴を行った。裁判は続いた。4年が経過した2011年の3月、大阪地裁はついに不認定処分を取り消した。
「(Aには)LTTEの協力者であるということを理由に生命・身体に対する恐怖を抱く客観的な事情があった」
難民だと認めたのである。国はこれを控訴せず、ようやく不安定な地位から解放されるはずだった。Aは支援者に感謝を捧げるとともに、生活の基盤を整えてスリランカに残してきた子どもたちを日本に呼び寄せようと夢を膨らませた。
しかし、安堵したのも束の間であった。9ヶ月が経過した同年12月、法務省は再びAを難民不認定とする通告を出してきた。大阪地裁は、判断の理由でAを難民としたものの、「不認定処分を取り消した」のであって、形の上では難民認定行為そのものではない。判決を受けて、入管はAの難民申請を改めて審査することになった。その審査において、裁判所軽視も甚だしく、司法が判断を下したにもかかわらず、Aは再び不認定にされたのである。UNHCRによれば、人は認定されて難民になるのではなく、難民条約の定義に含まれている基準を満たすやいなや同条約上の難民となる。にもかかわらず、 生命の危険を感じて逃れてきた人物に対して、難民であるか否かを国が可変的に決められるという入管の矛盾 がまずここにある(但し、Aにいわゆる人道配慮に基づく在留許可をして正規の在留は認めた)。法務省が不認定の根拠としてきたのは、スリランカ情勢の変化である。
スリランカ軍のLTTEに対する掃討作戦は大規模に展開され、次々に自国領土を奪回していた。これより3年前の2009年5月にはスリランカのラジャパクサ大統領が、かつてジャフナをはじめ国土の三分の一を支配していたLTTEを完全に武力制圧、司令官のプラバカランをも射殺したことを宣言していた。これらの事態を踏まえて、「戦闘終結が宣言されて、客観的な危険性があるとは認められない」というのが、認定取り消しの理由であった。
しかし、支配地域がなくなったからと言って紛争が全面解決したわけではない。2002年からウィクラマシンハ首相の依頼でこのスリランカ和平停戦のアドバイザーとして現地に入っていた明石康元国連事務次長は、LTTEの掃討直後に行った筆者によるインタビューで、「軍事的に、どちらが勝つとか、相手を打ち破るということだけでは本物の平和にならないし、根本的な原因である差別の問題、貧困の問題、法の前の平等、そういうものが確立しないと平和は決して永続しません」と回答している(拙著『独裁者との交渉術』集英社新書、2010)。和平停戦は決して安定的なものではない。
制圧された後、地下に潜ったLTTE残党も存在する。さらに忘れてはならない視点として、スリランカの中ではなるほどシンハラ人が多数派であるが、世界規模で見れば、シンハラ人が2000万人に対しタミール人は6000万人も存在する。かつてLTTEに対して惜しみなく資金や武器を供与していたスリランカ国外在住のタミル・ディアスポラ(追放されたタミール人の意)は現在もその支持を継続している。一方でシンハラの準軍事組織であるホワイトバンはスリランカ国内のタミール人に対する拉致、殺害を繰り返している。
そしてまたAという人物が(公正であろうとするが故に)スリランカ政府とLTTEにいかに注視されマークされているかは、先述したファクトが何より雄弁に物語っている。
実際にこの2010年にはAがスリランカに残してきた娘が誘拐されるという事件も起きた。決して用心していなかったわけではない。安全性を考慮して、Aは子どもたちをシンハラでもタミールでもない中立のインターナショナルスクールに通わせていたのだ。それでも狙われればひとたまりもない。下校時に車に押し込められた。このときはすきを見て逃げることができたが、犯行を行ったのはホワイトバンであることが確認されている。
もうここでの生活を無理と考えた妻は娘を連れてニュージーランドに逃れた。かように危険が続いているスリランカのいったいどこを見て「情勢が変化」したというのか。Aは2011年12月の不認定処分に異議を述べたが、異議も2015年に棄却され、再び難民認定を求める訴訟を提起した。それは自身の尊厳を守るための闘いであった。
これまでに裁判で勝訴が確定したにもかかわらず、再び不認定にされた例はアフガニスタン人、トルコクルド人、ネパール人2人と計4件あった。それら出身国はAのスリランカを含めてどこも日本が投資先として入り込もうとしている国であり、刺激しないように本来は難民問題に決して持ち込んではいけない政治的な思惑、忖度が入り込んだとも言われている。過去の4人は皆、長い裁判に疲れて諦めてしまっていた。二度目の訴訟を起こしたのは、Aが初めてであった。