入管を訪れる人々

第1回 難民認定を二度取り消された男・A (1/3)

日本に滞在するための手続きを行う外国人、収容者と面会する家族や弁護士、あるいはそこで働く人。入国管理局には様々な人間が訪れる。民族問題に取り組み続けるノンフィクション作家・木村元彦が、入管という場所で交錯する人生を描き出す。
(バナー写真:島崎ろでぃー)

 北関東某所。雑然としたシェアハウスの六畳間の一室。あるのはベッドと机と幾つかの宗教画。Aはここで生活している。ぽつりぽつりと半生を語ってくれる。が、辛そうだ。病んでいる。かつて、祖国で実業家として大きな会社を経営していたAは、日本での肉体労働で負ったケガの後遺症を引きずっている。昨日も通院してきたといい、体調も思わしくない。けれど話を聞きたいと、いきなりやって来た筆者に野菜ジュースを振る舞ってくれた。

 Aはスリランカの北部の都市、ジャフナでタミール人として生まれた。その属性からタミール語を話し、ヒンドゥー教を信仰した。アッパーカーストとして高いレベルの教育を受け、学業でも優秀な成績を収めていた。成人後もそのまま地元で仕事に就いて平穏な生活を続けていくことを望んでいた。しかし彼は19歳のときに故郷を出ることを決意しなくてはならなくなった。ジャフナでスリランカからの独立を目指すタミールの過激派武装組織LTTE(タミール・イーラム解放のトラ)の活動が激しくなってきたからである。1979年のことだった。
 スリランカでは植民地時代、宗主国のイギリスが従順であったタミール人を官吏に重用してシンハラ人を支配統治させていた。1948年に独立するとこれが反転する。多数派のシンハラ人を中心に据えたスリランカ(当時セイロン)政府が成立すると、まるで怨念を晴らすかのようにシンハラ人優遇政策が取られて、タミール人への弾圧が始まった。選挙権が剥奪され、シンハラ語のみが公用語として制定された。
 民族浄化の対象とされたタミール人の不安と不満が深まる中で、武力による分離独立を目的に誕生したのが武装組織のLTTEであった。1975年にジャフナ市長を暗殺したLTTEはその後もさらに勢力を拡大しつつあった。強大な軍備を持つスリランカ軍に果敢に武装闘争を挑むLTTEは、マイノリティとして迫害されてきたタミール人たちにとっては、すがりたくなる対象でもあり、神出鬼没のゲリラ戦でスリランカ軍に煮え湯を飲ませる指揮官のヴェルピライ・プラバカランに快哉を叫ぶ者も少なくなかった。しかし、穏健で平和的な解決を望むAにとっては脅威でしかなかった。Aは父祖の土地を愛し、タミール人としてのアイデンティティーは誇り高く堅固に持っていたが、そのこととシンハラ人を憎悪し武力攻撃することは別だと考えていた。プラバカランは一般的なシンハラ人の通う寺院や女性や子どもが乗っている路面バスの破壊をする指令を出し続けており、到底支持することはできなかった。ゲリラ兵に爆弾もろとも突撃させるプラバカランは自爆テロの元祖とも言われ、その戦法は中東に波及してアルカイダなどに影響を与えている。LTTEは、やがてアメリカやEUから国際テロ組織として指定されていくのであるが、当時からジャフナに住むタミール人の若者を頻繁に呼び出しては、戦力に加えようと強引に画策していたのである。幼い者に銃を持たせて戦わせる少年兵問題も起こりつつあった。
 AはLTTEと関わりたくないがために、港町コロンボに向かい、2人の兄がそうしたように船員になった。身を守るためにこれほど安全な職業はなかった。8ヶ月月船に乗り、1ヶ月は陸地コロンボで生活するのだ。追っ手があったとしても容易には捕まらない。コロンボはジャフナとは対照的に多数派のシンハラ人の街である。なんとAはここで知り合ったシンハラ人女性と恋に落ちた。1983年にスリランカ政府軍とLTTEは全面的な戦闘状態に入っており、民族間の憎悪も過去にないほどに広がっていたため、周囲は家族も含めて大反対した。しかし、Aは毅然としていた。
「大切なのは相手がどんな人間であるかで、民族で判断すべきではないと私は考えていたのです」
 交際を続け結婚を決意すると、女性もまた同意した。1986年に民族が融和したカップルが誕生した。Aは家庭を持ったことで船員を辞め、インドに移住し、タミール・ナドゥ州のチェンナイに居を構えた。チェンナイはタミール人が多く暮らし、タミール語が公用語とされている。船員をしていた頃の蓄えがあったので、専門学校のプラスティックポリマー加工の6ヶ月コースに通って資格とノウハウを得た。資格を活かして化学製品加工の仕事に就いたころに、長女が生まれた。生活も落ち着き始めたが、インドのタミール人のコミュニティの中でシンハラ人の妻が何かと孤立するような事態が起こってきた。自身、多数派内で暮らすことの苦労を知るAは不憫に思い、スリランカに帰ることにした。
 子どもが幼稚園に通う年齢になった1991年にコロンボに戻り、翌年にニゴンボという町でプラスティック加工の工場を立ち上げた。もとよりタミール人は、植民地時代から利発で目端が利く民族と言われており、欧米社会の中で暮らす在外タミール人も医者や弁護士の職業に就いている者が多い。Aもまた先を読む経営能力に優れ、工場経営は軌道に乗っていった。会社は最盛期には約80人もの従業員を雇うほどに大きくなり、技術を駆使した新商品のバランスボールもヒットして大きな利益を生んだ。
 ところが、今度は自分が標的にされた。先述した通り、妻と共に戻ったコロンボはシンハラ地域である。工場経営の利益で1エーカーの私有地を買うと、シンハラの人々の嫉妬が爆発した。時をほぼ同じくしてLTTEが人形を模したプラスティック爆弾で寺院を爆破するという事件が起こった。シンハラ人の警官が「あの爆弾はお前の会社が作ったんだろう」と嫌疑をかけてきた。1978年に初めて自爆テロを行ったLTTEの戦士の名前がAと同じであったことも誤解を生んでいた。拘束をされ尋問を受けた。インドの仕入れ元から単なるプラスティックの輸入であったことが証明され嫌疑を晴らすことができたが、シンハラである妻の親族からも白い目で見られたことから、Aは深く傷ついた。

 

「第1回 難民認定を二度取り消された男 ・A (2/3)」は12月7日(金)に公開します