入管を訪れる人々

第2回 元西日本入管センター入国警備官・泉井卓 (2/2)

日本に滞在するための手続きを行う外国人、収容者と面会する家族や弁護士、あるいはそこで働く人。入国管理局には様々な人間が訪れる。民族問題に取り組み続けるノンフィクション作家・木村元彦が、入管という場所で交錯する人生を描き出す。

 泉井が入管に出向した2002年はちょうど日韓W杯の年であった。
「ワールドカップで浮き足立っていました。フーリガンは入国する前に門前払いです。強制送還は自費で航空券代を払っての帰国となります」
 当時、日本の入国管理局はW杯出場国のサッカー協会や外務省と連携し、スタジアムへの入場を禁止されていた札付きのフーリガンのネームリストを入手して水際で止めるという作戦を実行していた。
 筆者は、同年6月3日に新潟ビッグスワンスタジアムで行われたメキシコ戦を応援するために来日しながら、成田空港で入国を止められたクロアチアの極右のサポーターグループ、バッドブルーボーイズをかつてザグレブで取材していた。彼らは成田の入管に5日ほど収容された後、送還された。せっかくのチケットが無駄になったと怒っていた。
 収容者が送還になると、警備官が出身国の領事館に行ってパスポートを手配して空港に連れていく。
「国家間が友好関係にある領事館だとすぐにパスポートを出してくるんです。韓国などは早かったですね。本人の身分証で本国に照合して発行してもらう。私らのような窓口の下っ端同士は仲良くなるし、領事が警察や外務省出身だと特に入管に理解があった。逆に中国はやりにくかったですね」
 中国人は、送還されるにしても賄賂による二重の経済構造であることを前提に準備していたという。
「今はもうそうじゃないかもしれんけど、帰ったら空港に(中国の)公安が待っとんねんね。送還者って把握しとって、そのまま留置所に入れられて。で、なんぼ寄越せ、何百元、何千元もってこい、家族に連絡しろ。それが手配できへんやつはずっとそこに拘留される。上海だの福州だのいろんな空港の中で、仲間内の情報で今公安に渡す一番賄賂が安い空港がその時のトレンドになる。だから北京の人間でも送還されると上海行のチケット買うわけですよ。『なんで北京に帰らない?』というと『今北京は高いから』って」
 収容者が帰国を決意する上で、言葉や制度が分からないがためにみすみす損をしている状況も指摘した。
「当時僕が見ていた送還者の中で一番長く日本にいたのがブラジル人で、調べたら働いているときの年金が一部返ってくるっていうのが分かったんです。それをチケット代にして帰った。でも年金とかそういうのを返してもらえる日本の制度というのは、彼ら知らんじゃないですか。年金事務所で初めて教えてもらうまで僕も知らんかったし。納税とかさせとったんやったらね、やっぱり日本人だけなくて、外国人にもオープンにしてやらんと。本人が帰るっていうなら帰してやらないかんだろうし、あくまで収容設備ですから」

 入管業務で体重が大幅に減ってしまったという泉井に、拘置所から入管への出向となった際の職場の変化という点で、とまどいはどこにあったのか聞いてみた。
「入管は刑務所に比べて、勤務についてはそんなハードな印象はなかったです。ただ、中の収容者が毎日ハンガーストライキや座り込みをやったりして、現場の入管職員の士気は下がっていました。たぶん、あの頃初めて、警備官が収容者に暴行したという訴訟が2件ほど大阪であったんかな。ウガンダ人と中国人です。入管側が両方負けたんじゃないですか。映像が出ましてね。あの時代、刑務所でも警察でももちろん、収容者を制圧する場面を撮影するというのはなかったんですよ。入管がさきがけじゃないですか。後に、刑務所とかもそれを見習う形で制圧場面を撮影するようになったんです。今は必ず2台のカメラで撮ることが浸透しています。意外と入管は、収容業務に関しては先を行ってるんです」
 制圧場面の可視化は、意外にも入管が始めたことだという。

 泉井は大阪外大のフランス語学科出身であるが、1996年大阪拘置所時代にペルシア語の研修を受けている。イラン人が増えていた当時の現状を受けて、法務省が外国人犯罪の増加を見据えていたということでもある。語学の堪能な警備官として、収容者の通訳や送られてくる手紙のチェックをし、面談をしていた。
「入管の職員は優秀ですが、(国内の外国人を対象とする)警備官と(入国しようとする者を対象とする)審査官は別もので仲は良くないですね。いろんな部門があるんですが、やはり、入国管理局のなかでは摘発部門というのが手当も厚いし花形です。どうしても数字があがるのは、不良外国人をこれだけ摘発しましたっちゅうようなことですからね。でも、実際に大事なんは捕まえてきたあとですよね。それは僕らがおる時代でも、東京で摘発した中国人とかを、観光バスで護送してくるわけですよ。東京では収まりきらんから、西日本センターで収容してくれっちゅうてね」
 現在、入管における収容者への人権侵害が大きく問題視されている。2014年3月には東日本入国管理センターで重篤な糖尿病などを患っていたカメルーン人男性が「死にそうだ」と7時間も体調不良を訴えていたにもかかわらずそのまま放置されて命を落とした。助けを求める映像はそれこそビデオにしっかりと撮影されて残っている。1997年以降、同様の死亡事件は7件にも上っているという。医療体制の不備が指摘されても改善の兆しすらない。
「僕が(西日本入管に)いた当時、アフガンの難民申請を支援する団体の人たちが入管に抗議集会に来ました。主張してることは分かるんですけど、収容している現場に来るんやったら、霞が関に行った方がええんちゃうかな。収容者を病院になぜ連れていってあげないんですか!と言われるんですが、収容施設はどこでもそこの医者が医療にかんすることを決めるんです。だからその医者が『この人は薬で様子見ます』『問題ないです』と言えば、入国警備官としては医者を無視してまでも連れていけないんです。問題はその医者がどんな人物なのか。僕のときは現役を退かれたご隠居先生。その次は耳の不自由な先生でした。良い方でしたが、患者とコミュニケーションが取れない。補聴器なんてものではなく患者がマイクで話してようやく分かるというレベルでした。あるイラン人がいて、彼は薬をもっと欲しかったものだからマイクをとって怒鳴る。まるでカラオケみたいでした。受け入れも厳しくて、先生の指示で近くの総合病院に行っても『もう連れてくるな』、となったりするんです。茨木市の第二警察病院(現・北大阪警察病院)は診てくれましたが」
 医療を医師に丸投げすることで安定した治療を受けさせることができず、結局その医師がどんな人物かという個人の性格や属性に大きく左右されてしまう構造が生まれていた。

 泉井の入管勤務の記憶の中でもうひとつネガティブなものとして残っているのが、突然の仮放免の取り消しである。仮放免が認められて収容所から身柄が解放されても、30日に一度入管に出頭することが義務付けられる。そこで突然仮放免の許可が取り消されることがあるのだ。
「普通、身柄を押さえるときは令状を持って行くじゃないですか。それを月に一度呼び出しておいて、いきなり『もう今日アウト』『今から入れるから』。それはないやろうと思うたんです。茨木の大阪入管の分庁で実際にあったことですが、日本人の高齢の旦那さんと韓国人の奥さんが窓口に来てたんです。仮放免の何回目かの呼び出しのときに『奥さんあなた、やはり不法滞在です。収監します』と、この場で収容所に入れということになった。いきなり夫婦が引き裂かれるわけです。この旦那が腹に据えかねて、審査のオフィスのカウンターで焼身自殺を図ったんです」
 高齢の夫はトイレで灯油を被り、またカウンターに戻ってきて自分で火をつけた。
「当時僕は収容のところにおって、同僚が『今そこで奥さんが収容されるってなってキレてもうて、こんなんあったんや』と報せに来た。すぐに走って行ったら、そんなことにはみんな慣れてない人ばっかりやから、対処できずに床におっちゃんが倒れたままでね。火は消えたんですけど、煙上がった状態で黒焦げで横たわってるんですよ。みんな茫然としてるから、とりあえず119番、110番せえ言うて。まだ意識があったんで。『お前何したんや』『油かけた』『どこでや』『トイレ』『このライターで火いつけたんか』『そうや』いうのんだけ聞いてね、あと意識失ってもうたんですけど。で、警察きて事情説明して、焼身自殺図ってるから刑事課呼んでくれっていうのがあったんですね。
 もう審査官の連中なんか、目の前で人が燃えてるわけですから、何もできない。一命はとりとめた。でももうね、皮膚がもう融けてしまって、床のカーペットにへばりついてね。でも、そんなことを、入管はしちゃうわけです。だましうちですわね」

 先述したが、泉井は定年を前に刑務官を辞めて選んだ職業が真言宗の僧侶である。近年は僧名を本名にしてブラックリストの名前を消したり、悪事をする者がいるので得度も困難である。しかし泉井には信用があった。
「刑務官を長年やっても税務署や法務局のように税理士や司法書士になれない。行政書士にはなれるかな……。これからは人の役に立てるように阿闍梨をとって布教活動をしたいです。中で受刑者のためのカウンセリングも散々やっていたし、この経験を役に立てたいですね」
 拘置所で死刑囚たちと向き合ってきたことを踏まえれば教誨師になっても良いのではないかと問うと「教誨師はそれなりの地位の人たちがひしめいていると思うんです。まだ自分のようなペーペーではなれないですね。でも普通の人が一生見ることのない世界を見てきましたので、それを話していくという活動もしていきたいです」と言った。


写真:本人提供

 

第3回は2月1日公開予定です