入管を訪れる人々

第2回 元西日本入管センター入国警備官・泉井卓 (1/2)

日本に滞在するための手続きを行う外国人、収容者と面会する家族や弁護士、あるいはそこで働く人。入国管理局には様々な人間が訪れる。民族問題に取り組み続けるノンフィクション作家・木村元彦が、入管という場所で交錯する人生を描き出す。

 泉井卓は180センチを超える大きな身体を持ち柔道の有段者でもある。剃りあげた頭といかにも修羅場をくぐってきたという目つきや風貌から、極道社会の人物と見間違われかねないが、れっきとした真言宗の僧侶である。出家する前は刑務所や拘置所に勤務して受刑者の指導をする刑務官であった。泉井はその中でもかなり特殊な職歴だった。通常の刑務官はキャリアを重ねる上で教育部門や作業部門という部署に移ってバランスよく勤めあげていくが、彼はそのキャリアのほとんどを処遇部門という人を扱う最前線の部署に捧げた。
 定年前に辞めて仏の道を選んだ理由を「ときには力ずくでやりました。刑務所は、死刑囚ではない一般の受刑者でも亡くなる人が多いんです。大阪刑務所なんかやったら毎月のように病気や自殺で亡くなる。そういうところで自分への反省も込めてこういう道もええんかな、と思ったんです」と語る。あまりに無様な現政権やキャリア官僚に対する憤りも強い。
「私の様な元木っ端役人からすれば、事務次官たちエリートは特権階級です。国会や公の場で嘘の証言までして地位にしがみつく姿を家族や友人に見られて平気なんでしょうか。大阪の森友問題では近畿財務局の職員が自殺しましたよね。それだけでも許せません」

 泉井は1995年に刑務官試験に合格、初任地は大阪拘置所だった。ここには死刑確定者がいて、彼らと向き合うことが最初の仕事だった。刑場が近くにあった。知られたことであるが、死刑を執行する絞首のスイッチは誰が押したのか、分からないようにするためにボタンが複数ある。
「大阪(拘置所)は4つありました。執行手当てが2万円やったか、3万円やったか忘れましたが……」
 大阪拘置所では、泉井が入る前までは死刑執行の告知が前日に行われていた。
「『君は明日、執行や』と告げて、死刑囚だけが入っている房の集会室で皆でお別れ会をするんですが、そこでは、執行をされる者が、私物を他の人に渡すんです。『これを使って下さい』と。いわば形見分けですわ。それで自分の部屋に戻る。ここから翌朝までの間に自殺される可能性があるので、職員が一晩つきっきりです。この職員さんが辛い。まあ、前日告知は大阪だけやったと聞きました。僕の頃はもうなかったですけど。当時のそんな話を聞くのもしんどかったです」
 大阪拘置所で7年間勤めると、2002年に大阪入管に出向となった。西日本入国管理センターで収容者の処遇にあたる。拘置所から入管へ出向いたことを今、あらためてこう回顧する。
「入管の収容施設に入っている人って、限りなく一般人に近い存在じゃないですか。もしくは刑務所から出所したやつ。僕らはやっぱ刑務所出身だから、どうしてもちょっとこう、一般人には見られなかったんですけど、刑務所から出てきた人であっても、法律的には刑期を終えて仮釈放で、日本人なら当然外で生活してる人間なんです。よくね、入管におった時代に収容されてた人が言うてた台詞に、『わたしたちは、犯罪者じゃない』というのがあるんです。だからなんでこんな鉄格子のある部屋に入れられてるんだって。当時はあんまりそんなこと思わなかったけど、今になったらねえ、やっぱりおかしいよなと思いますね。難民申請をする段階でその傍証がしっかりとあって、『ちょっと審査するのに数か月かかりますよ』って人は、仮放免したらええと思う。もしそれで逃げたら、難民申請なんて受理できないんやから。日本国民であれば、裁判官の発した令状でしか身柄は拘束されないじゃないですか。でも、入管というのは入国審査官が収容令状、送還の令状を発布してしまう。これってすごいことですよ」
 同じ人間でありながら裁かれ方が大きく異なる。その矛盾を指摘する。日本の裁判官は日本の法律に基づいてジャッジをするが、入管の発布するものには明確なガイドラインすらない。そう言うと泉井はこう語った。
「だから入管庁になれば、そこはもっとしっかりしたほうがいいですよ。犯罪者じゃないっていう意識の人を鉄格子のついた施設でルールを守らせて生活させる、入国警備官の負担っていうのは大きいと思います。やっぱりしんどいです。
 あれは職員もかわいそうです。へんな話、刑務所やったら収容される覚悟してきてますから。刑務所なんか極端な話、受刑者が一挙手一投足決められてるじゃないですか。自分の判断の動きなんてほぼないんですよ。ところが入管というのは、収容されている間の生活自体は中途半端に自由度が高いんです、煙草も吸えるし、運動もできる。そやけど鉄格子のある部屋に入れられて、そりゃストレスたまりますよね。そういう人たちに処遇する入管の職員、牛久のセンター(東日本入国管理センター)、きついと思います。だから、彼らの世界でも処遇に行くっていうのは貧乏くじなんですよ。みんな嫌で嫌でしょうがない」

 泉井を筆者に紹介してくれたのは、西日本入管で難民申請者の通訳をしていたダリア・アナビアンである。ダリアは神戸育ちゆえに関西弁ネイティブであるが、父親がイスラエル人、母親がイラン人でヘブライ語とペルシア語を流ちょうに話すことができる。9・11同時多発テロの事件以降、祖国が戦争に巻き込まれて帰国できなくなった在日アフガニスタン人のために奔走していたダリアが(アフガンを構成するハザール人が主に使うダリー語は、ペルシア語の古語なので理解できるのである)、「入管に外国人収容者に親身になってた刑務官がおってん。一回、木村さん(筆者)に会わせたい」とかねてより語っていた。会ってみたら、出家していたというわけである。
 刑務官の立場から、入管時代のことを語ってもらう。
「お国柄なんてあるんかなと思っていたけど、国によって入っている人の性格は異なります。アフリカ系の人はおおらかなんでしょうかね。収容施設に入ると間違いなく真っ先に心が壊れていくんです。収容者からの要求で一番多かったのは、食事についてです。食中毒を念頭に置いていたんでおかずは揚げ物ばかりで生野菜が少ない。私がいる間に自費でサラダを買えるように改善されました。あと医療ですね。刑務所も入管もお医者さんの確保に苦労していました。私のいた頃は当時の西日本入管の隣にあった少年院の先生が掛け持ちでやってくれましたが、たいへんになって辞めた。退官されてからはつぎはぎでした。あとはお医者さんの考え方ですよ。収容されている人やとか、国へ帰るという人やったら、国に帰って診てもらったらええやんという考えで、診療がぞんざいになるんです。僕は官舎に住んでいましたが、ほぼ毎日何かがあって呼ばれていました」
 泉井はイラン人の強制送還にも立ち会った。イランはホメイニ革命以降、立憲君主制からイスラム原理主義を理念とした政治に移行し、イスラム法学者による統治に変わった。裁判ではイスラム法が適用され、芸術一般もイスラムの教えに沿ったものしか許されないことになった。ホメイニは厳格なイスラムの生活規範を復活させた。
 しかし、イランは元々、古代ペルシア時代にはゾロアスター教を国教とする国だった。急激な変化は大きな混乱をもたらし、多くのイラン人が国外に脱出していた。特に日本へは相互ビザ免除協定によってかなりの数のイラン人たちが生活していたが、バブル経済が崩壊すると日本政府は1992年にこの協定の終結を宣言する。とたんに大量のイラン人が不法滞在者とされ、取り締まりの対象となった。
「イラン人を空港まで送りました。イラン大使館からの要請で、関空からだとトランジットのマレーシアで逃げられるというので、成田から直行便でテヘランに帰すとなったんです。手錠をかけて新幹線に乗せました」
 入管職員の随行は空港のゲートまでということで、成田空港の中に入るとイラン大使館の秘密警察と思われる筋骨隆々のセキュリティが待ち構えていた。それまで大暴れしていたイラン人はその姿を見ると観念したかのように身を固くした。大使館のセキュリティはイラン人をロープでグルグル巻きにして連れて行った。送還者を乗せるのは、飛行機の一番前の席か一番後の席か、それは航空会社によるという。
 テヘランで彼は死刑になったのか。死があまりに近くにあった職場のために辞職して仏門に入ったという泉井は回顧しながらこう言った。
「入管にいて2年間で30キロ痩せました」

「第2回 元西日本入管センター入国警備官・泉井卓(2/2)」は1月11日公開予定です