明らかに不合理な選択
しかし、実際には信じた者たちがいた。彼らの行動には顕著な特徴があり、それが、まったく意図せざる結果として、資本主義の誕生を促したのである。とりあえず、強調しておかなくてはならないことは、これは、カルヴァンにとっても、彼に従った信者にとっても、もともと意図していたことではない、ということだ。彼らは、資本主義的な営利行動を促進しようと思って、予定説を導入したわけではない。カルヴァンが生きていたら、結果に驚愕し、むしろ嘆いたであろう。
いずれにせよ、予定説は人々の行動に劇的な変化をもたらしたのだ。どのような論理が働いたのか。このことが理解できれば、われわれは、資本主義なるものの精髄を把握したことになる。ヴェーバーは、予定説がどのようにして行動的禁欲につながったかを、多くの言葉を使って何とか説明しようとしている。が、その説明は、わかりやすいものではない。というか、むしろ、私ははっきりとこう言ってしまいたいくらいだ。ヴェーバー自身が、説明に失敗している、と。少なくとも、ヴェーバーは、自分自身が見出した連関、予定説を中核にすえるプロテスタンティズムと行動的禁欲との間の連関を、簡単に見通しうるような仕方で提示するには至っていない。ここからは、ヴェーバーの論述を離れて説明することにしよう。
論理の骨格を示すために、ひとつのゲーム状況を導入する[4]。今、目の前に二つの箱が置かれている、とする。透明で中が見える箱と不透明なブラックボックスである。透明な箱Aの中には、1000万円の札束が入っているのが外から確認できる。不透明な箱Bは、空っぽであるか、もしくは10億円が入っているかのいずれかであるとされている。
A 透明な箱 1000万円
B 不透明な箱 0円 または 10億円
ここで行為者に――つまりあなたに――選択肢が提示される。舌切り雀の童話のように、「AかBのいずれかをとりなさい」という選択であれば、このゲームは、たいした含みのないつまらないものになる。この場合には、Aを選ぶ者もいれば、Bを選ぶ者もいるだろう。違いは、行為者の性格による。慎重な人はAをとるし、大胆な人はBをとる。1000万円を確実にとりにいくか、思い切って10億円をとることに賭けてみるか。ただ、それだけのことである。
行為者に与えられる選択肢は、「AかBか」ではなく、次の二つのうちのいずれかであるとする。
H1 不透明な箱B
H2 透明な箱A+不透明な箱B
Bのみを取るのか(H1)、それとも、AとBの両方を取るのか(H2)。このゲームは「AかBか」というゲームよりもさらにいっそうつまらないように思われるだろう。この場合、行為者がとるべき選択肢は、H2に決まっているからである。どちらにせよ、不透明な箱Bをとることはできる。箱Bが空の場合も、また10億円入りの場合も、どちらであってもH2の方が得である。H2をとっておけば、最悪でも、1000万円を得ることができる。合理的な行為者であれば、100パーセント、H2の方を選ぶだろう。
このゲームで、箱Bに運よく10億円が入っている場合が、「救済」に、そして、箱Bが空っぽだった場合が、「呪い」に対応している、とする。するとゲームに宗教的な(終末論的な)含みを与えることができる。が、いずれにせよ、合理的な選択はH2をとることにある。これはまったく自明な結論である。
ところが、予定説に基づくプロテスタントとは、このとき、H1をあえて選択する者なのだ! どういう意味なのかは、つまりどのような意味でH1が世俗内禁欲に対応しているのか、は次回説明しよう。考えるべきことは、このゲームをどのように改造すれば、行為者にH1を選択させることができるか、である。箱Bの中に何が入っているか(つまり0円か10億円か)は、選択の前に固定されていること、その中を外から観察できないということ、この二前提は絶対に変えられない(これら二条件が予定説に対応している)。必要なことは、このゲームに何かを付加することである。その「何か」を見出すことができれば、予定説の逆説を理解することができる。
[1] マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年、207頁。
[2] 同書、122頁。
[3] 経営者は、労働者に労働へのインセンティヴを与えようとして、出来高賃金制にする。今日でも普通に採用されている手段だろう。資本主義が普及する前の労働者は、しかし、このやり方のもとで、労働の量や強度を上げたりしない。むしろ逆である。たとえば、時給1000円で毎日8時間労働し、1日に8000円稼いでいた労働者がいたとする。ここに出来高賃金制を導入すると、前資本主義的な行動様式をとる労働者は、8000円分稼いだところでその日の仕事をやめてしまうので、かえって労働時間が減る傾向があるのだ。出来高賃金制が所期の効果をもたらすこと自体が、すでに「資本主義の精神」を獲得していることの証拠になる。
[4] 次回詳しく述べるが、われわれはここで以下の著書を参照している。ジャン=ピエール・デュピュイ『経済の未来』森元庸介訳、以文社、2013年。