朴沙羅

証言・行政・当事者性
水俣のいまと記憶の継承

2020年7月25日、天劇キネマトロンにて、水俣病センター相思社の永野三智さんと社会学者の朴沙羅さんによる対談が行われました。主催者の牧口誠司さん、登壇者のお二人の了承を得て、当日の模様を掲載いたします。なお、公開にあたり原稿の確認および加筆修正をいただいています。

当事者性について
――ここからは、会場のみなさまからの質問をお聞きしていきます。その前に、わたしのほうから一点。対談でも出てきましたが、「当事者性」というか、自分がその問題にどう関わるかについて。永野さんの本『みな、やっとの思いで坂をのぼる』の冒頭では、永野さんが子どものころ、水俣病の患者のお姉さんをからかったという体験が書かれています。朴さんの本も初めのほうで、歴史という問題をどうとらえるか書いていました。

永野 本を読まれていない方もいらっしゃると思うんですが、小学生のころに、父の職場に胎児性(母胎内で有機水銀に侵され生まれたひと)の患者の方が遊びに来てたんですね。胎児性のひとたちとはずいぶん関わりが深くて、近所にたくさんいらしたし、親と同世代ということもあって、可愛がってもらいました。
 あるとき胎児性の患者の方が一人で歩いてきたのを見て、友だちがみんなで真似をはじめたんです。お前も真似せいやと言われて、真似をしたんですよね。真似しないということができたらよかったんですけど、私はその場で自分を守った。それが自分の、水俣病との最初の苦い思い出なんです。
 それからずっと、水俣病というと自分のなかにはそのことがあって。大人になってから、自分が外から差別を受けるという経験もしたんですけど、ひとに対しての加害というか、水俣病の原因をつくったということではない、別のところでの加害というものがありました。
 経済が発展して豊かになっていく過程で水俣という地域が置き去りにされ、踏まれていったその上にいまの私たちの暮らしがあるんですよね。そして、その延長上に私たちは生きている。認定を受けないひとたちとか、こぼれおちたひとたちを放置した、関心を持ってこなかった私がいる。この社会を構成している私たち一人ひとりが実は加害者なんだと思うと、自分も当事者になってしまう。
 患者さんの話を聞いていて、行政のひとに対する怒りがあふれてくると、すごい形相で話をされるんですけど、そういうときに自分が加害者になった気持ちになるんです。「あんたがそげん顔せんとよかったい」って言われるんですけど、「そげん顔ばせんばいかん」と思うんですよね。自分も、このひとの前では行政と同じだと思う。被害者でなければ加害者だとは言い過ぎかもしれないですが、そういうつもりでいます。みんなが何かしらの当事者だと。

朴 私は、研究者として関わる事柄については、絶対に、自分は当事者ではないと思っています。したがって、被害者か加害者かで二分するなら、その限りにおいて、加害者ということになるでしょう。
 私は子供のときからずっと「朴沙羅」という名前しか使っていないんですが、小学校のときに私のことを「朝鮮人はくさい」だの「韓国に帰れ」だの言っていじめたのは、ほぼ全員在日コリアンだったんです。たぶんそれが原体験になって、そこからずっと、私の営業相手、つまりだれと手を結んだらいいんだろうって考えてきています。
 大学院生になって、自分の論文の読者を誰にしようか考えたとき、私が営業をかけるべきは、悔しいことに、日本社会で影響力の大きい日本人、多くの場合は年上の男だと思ったんです。そのとき、やつらに向かってしゃべる私は、絶対に当事者ではないと思った。そういう意味では、仲間はむしろ日本人の偉いおっさんたちなんですよね。すっげえ微妙。だって日本人のおっさんですよ。立場的には敵っていうか、打ち倒す相手です。でも、彼らをこそ説得しなきゃいけないと思った。
 お互い期待しすぎちゃうと仲良くなれなくなっちゃうんですよね。なんで私のこの苦しみが通じないの、って。そうやって信じすぎるからこそ、お互いすごく傷ついてしまうことがある。普通は他人にそんなレベルの高い期待なんてしないはずです。でも、自分が傷つけられる、その属性を共有する人に出会うと、この苦しみやこの寂しさを、この人ならわかってくれるかもしれないと期待し過ぎてしまう。で、ちょっとでも裏切られたらすっごく辛い。でも、苦しみって多様じゃないですか。在日コリアンがみんなおんなじように苦しんでるのかよって、そんなはずない。だから、同じ痛みを共有できるひとびとが仲間であるとは限らない。
 だから、私は自分が当事者になる場には行くまいと思いました。私は自分が他人であって、二分するなら加害者であって、よそのひととして何かを観察し、こういうことが起こっていますよということを伝えるのなら、そんなにしんどくなくてできるかなと思ったんです。

相思社の活動
――これは永野さんに。個人として聞きとったものを、組織としてどう展開していくか。お考え、お聞かせください。

永野 いま水俣病歴史考証館に展示してあるパネルは聞き取ったことを反映し、そのときにもらってきたものを実物展示しています。その営みは1980年代から、いまも続いています。
 たとえば90年代に水俣で「もやい直し」という事業がありました。「もやい」というのは船と船をつなぐロープのことで、市民と患者、行政と患者の関係を取り戻していこうというものです。それに対して協力していこうという患者もいるし、それは被害者の側が使う言葉であって加害者の側が水に流そうというのはおかしいととらえる患者もいる。いまは、もやい直しっていったいなんだったんだろう、そのときにみんながどうとらえたのかを聞き取って、展示にしようとしています。
 『豊饒の浜辺から』という本を相思社では発行しています。それぞれ水俣病に関わったひとたちに話を聞いて、それを一冊の本にしています。いま5巻までつくっていて、6巻以降もこれからつくっていくつもりです。
 今後、若い人たちが水俣病の歴史を紐解いたときに「おもしろい!」と関心をもつためにどんなふうにして水俣病関連資料を残せるか考えています。たぶん10年後にはいま自明のことがそうでなくなっている。未来に生きるひとたちのことを考えて工夫をして残す責任があると思っています。

――もうひとつ、組織としてはケアがあったりするんですか? あるいは、みんなが分断されないように気を付けていることとか。

永野 毎朝30~40分、ミーティングをやっています。前日の振り返りをしたり、相談をしたり。それとは別に、月に一回、それぞれの担当事業に関しての報告や相談をしています。朝ミーティングでぶつかったりして、殺伐とした朝になったりするんですけど(笑)。昼ミーティングにしたいんですよね、おやつ食べながら穏やかにみたいな。だいたい突っ走るのは私です。
 正規スタッフは6人で、20代が3人、30代が2人、50代が1人。そこにアルバイトの40代と60代のひとが入っています。相思社は、その場を皆でつくることを通して、互いの考えや常識を理解したり、自分の考えを伝えてコミュニケーションをとるようにしています。

運動のコツ
――朴さんに。市民運動に関わるひとたちの関わり方にグラデーションがあるなか、持続可能な運動をしていくためのコツってありますか。

朴 いやー、私、運動してないんでほんと勘弁してください。
 敢えていうなら、いつでもやめられること、じゃないでしょうか。ボランティアの最大のメリットって、いつでもやめていいことだと思うんです。専従になっちゃうと、そこに生活がかかってくるからやめにくい。すごいがんばらなくてもいいけど、それを一生続けたら、そのひとはそういうひととして記憶されるんですよね。
 先日、連れ合いと、われわれはいかに生きるべきかという話をしてました。連れ合いに、あなたは社会にどういうことを残したいのよって。彼が「引っ越さないでよかったら、盲導犬の赤ちゃんを預かるのがいい」と言うので「それ、私もやりたい!」って言ったんですけど。でも、彼がいま40歳で、80歳で死んだら、盲導犬を育てていた〇〇さんとして記憶されるでしょう。続けたら、そういう人として記憶されるでしょう。そういう自分を持って墓に入るでしょう。できないときはやめればいいし、できるときに戻ればいい。
 大学院のとき、社会学の授業にはろくに出ず、東洋史の有名な先生に教わっていました。私自身は、箸にも棒にもかからないダメ学生でしたが、その東洋史の先生が、何かのときに「研究者として生きていくんだったら、金儲けは諦めなさい。権力も諦めなさい。毎日ぜったいに努力しなさい、必ず毎日、一歩進みなさい」とおっしゃいました。その先生はたぶん確実に私よりお金持ちで、人事権も持っておられたと思うんですが(笑)。でも、間違いなく毎日、前進しておられます。
 あと、かつて京都にいた、京都の市民運動といえばある界隈の誰もが知っていた方がおられます。その人は、毎朝「今日はこんなことをしよう!」と楽しい気持ちで目を覚まして、「今日はこんなことをがんばった!」と充実感を抱いて寝ると伺ったことがあります。なので、コツは「毎日何かやる、いつやめてもいい」かなと思います。
 それと、運動って加害者と被害者がいるだけじゃないんです。被害者がつらくならないように、支援者がいる。支援者も被害者もすりきれないようにしないといけない。それにはたくさんのひとが動かないといけない。いつでもやめていい状態で、たくさんのひとがほんのちょっとがんばれば、一人のひとが超がんばらなくてもいいと思っています。

『家(チベ)の歴史を書く』について
――続けて朴さんに。『家(チベ)の歴史を書く』を書きはじめたとき、どんな気持ちをいだいてましたか?

朴 最初は卒論で書こうとして大失敗したというのが前史です。なので、書きはじめた時期があるとしたらそれです。実際は、この本を出してくださった出版社の編集の方が参加している研究会に行ったら、主催者の岸政彦先生が「この人は、書いてないネタがいちばん面白いんですよ。よくあることですけど」と紹介してくださったのを「それはなんですか?」って聞かれて、「親戚がアウトローで」っていうのに食いついてもらったという流れです(笑)。

――朴さんに。なぜこの4人を選ばれたのか、ご両親とか、ほかの方にはインタビューをされてないのですか?

朴 この4人にした理由は年齢順です。ご存命で、時間とって話してくださりそうな方。というか、うちの父がその時点で連絡がついたひと。実のきょうだいでも連絡がつかないこともあるんです(笑)。
 両親の人生を娘が聞くのは、常識的に考えてちょっときついかなーと。両親の人生にはぶっちゃけあんまり興味ないです。両親が参加した歴史的事件、運動、事業には、きわめて関心があります。
 母の人生は本人もどこかで書いています。娘としては、古語でいう「かたはらいたし」というやつですね。隣にいる人がむしろ恥ずかしいっていうか……なので、聞かないつもりです。でも、母が体験してきた運動や事業についてはインタビューして、英語の論文にバーンと載ってたりします。でも、親の人生を聞くのは、ハードです。

話を聞く相手との関係性
――関連してお二人に。話を聞く相手との関係性に関して、ルールなどありますか?

永野 本に出てくるひとたちは、基本的には、相思社にやってきたひとたちです。子どものころからの知り合いもいますが、関係性というのは、初めて会ったひとも多いです。
 ルールは、たとえば電話は30分と決めています。そうしないと、こちらがつぶれてしまうので、自分を守るために。私はカウンセリングの指導を受けているわけではないので、自分を守る方法を置いときたい。

朴 関係性はとくに決まっていません。「いま私はこれについて知りたい。あなたに与えるメリットはこれです、と言えないのが申し訳ないんですけど」とお願いして、それでオッケーしていただける方なら、ありがたくお話を伺います。私に話を聞いてくれって言ってくる方はいないので。たまたま今のところ、親戚や友人や、昔の知り合いが多いんですけど、それに限っているわけではありません。

永野 最近、職員が聞き取りをしたいというので、私が近所の70代の女性のところにアポを取りに行ったんです。そうしたら、ちょっと世間話をしたあとに、「私、あなたたち(相思社)のことを恨んでるの」って言われたんですよ。水俣病になったとき、たらい回しにされて治してくれなかったから医者も恨んでると。彼女は、支援から漏れていた。
 そんななか、ひとつの宗教が初めて彼女を救ったわけです。恨まれている私はどういう顔でその話を聞けばいいのかなって思いながら、2時間くらい話を聞いて。それ以来、月に1回くらい通うようになったんです。
 そうすると、彼女を救ったものが、実はほかの患者さんたちも救っていることとか、そのひとの家の近くには屠場があって、朝鮮のひとが働いて、包丁をもって行ったり来たり、豚や牛を殺すのはそのひとたちの仕事だったとか。市の職員の患者に対する扱いだったりとか、そういう話を次々に聞きました。水俣病に関しては怒りがあふれてるんですけど、宗教の話とか屠場の話になると、表情がころころ変わっていくんですよね。なんでこうして話を聞いてるのかなって考えてみました。自分のためというか、恨んでいますという状態のままで終わりたくないなって。心が折れないていどの距離で聞いています。

講演で気をつけていること
――これは永野さんに。学校に講演に行くとき、生徒さんに前提となる知識があるとは限らないと思うのですが、どんなことを大切にして語っていらっしゃいますか?

永野 子どもたちって、詳しいことは教わってないんですよね。というのが、行くととてもよくわかる。「患者数は2280人です」とか、「チッソが原因を知ったのは1968年です」とか。「水俣病は仕方なかった」ととらえられていることが多いんです。
 気をつけているのは、自分の知った事実を伝えることです。茶々が入ったりするんですが、めげない。そうすると感想文には、「小中学校では教わらなかったことがわかった」「大人ってやっぱり汚い」とかネガティブなものもあるんですが、実際そうなんですよね。
 子どもたちには、前提がないので、一発勝負でどれだけ爪痕を残せるか、そしてずるずるしたい。一人ひとりの名前を覚えて、対話をしながら授業をすすめる。質問に答えられなかったから、来週手紙書くねとか。友だちを絶対つくって帰るようにしています。

書くことのむずかしさ
――お二人に。書いていくことのむずかしさについて、どのように感じていらっしゃいますか。

永野 自分にとって書くこと、聴くことは痛みを伴うことでもあります。患者のひとと話をするとき、自分を開示することで相手も開示してもらえるということがあります。それはわりと大事にしてきています。
 それと、この町で何が起きたのか、当たり前だけど経験したひとたちが語らなければ明らかにはならない。1959年に声をあげたひとたちと、95年や2009年に声をあげたひとたちとでは、熱量に明らかな差があるんですね。
 もうひとつは、差別をした側された側というところでの分断もある。差別をした側の患者というか、59年以降に患者になったひとたちは自分たちが差別をしたという事実を超えずして患者になっていくのかという疑問があります。当時、患者に対して何をしてきたのか。加害者ではなかったのかという問いをわざとしてみる。
 水俣病が解決するとは思っていないけれども、いまでも水俣病に対するタブー感というのは蔓延している。より悪くなってます。2年前に「チッソ」の後藤舜吉社長が東京の本社から水俣市長選応援のため水俣にやってきました。候補はJNC労組の支援を受けて、会社内で出馬表明しました。彼が市長になってから、「水俣病」や「公害」「環境」という言葉が、水俣の市役所や議会の部署・委員会名、資料のなかから一掃されています。議員もチッソを支える。患者の一部は否定されたと思うし、患者が運動すればチッソに経済的に依存している市民はそれに抵抗するみたいなこともあります。
 このままいくと、水俣病はなかったことになるんじゃないか、たいへんだったねで終わるんじゃないか。痛みを伴ったとしても、ちゃんと聞いて明らかにしていく。持続可能なかたちで続けていきたいなと思っています。

朴 私は書くのも仕事のうちなので。書かないと自分が知らないことも気づかないぐらいアホなので、勉強するためには書かないといけません(笑)。私の場合、書くことが難しいときは、書けるほどの内容が自分の中にないときです。適切な言葉を見つけるまで調べていないとき、勉強していないとき、とも言えます。だから、書くことが難しいのは、内容に実力が伴っていないときですね。まあ、何か書いてもすぐ、間違いを見つけて後悔するんですけどね。

解決とはなにか
朴 いいお時間なので、私から永野さんに質問です。永野さんの考える解決とはなんでしょうか。

永野 水俣病は、解決しようのない出来事です。それを前提に、あとは一人ひとりの解決だと思っています。補償を受けるのが解決だと思うひともいれば、チッソの社長が直々に謝罪しろって思うひともいる。水俣病に触れないことが解決だと思うひともいます。
 全員は無理でも、それぞれのひとたちに沿って解決を求めていきたいと思っています。患者さんたちには、ここに生きて幸せだったなというふうに思ってほしい。

朴 解決は一人ひとりにあり、それに伴走されるということなんですね。実際やってらっしゃるのは、その仕事ですね。

永野 この本を出して驚いたのが、感想を寄せてくれたひとに、水俣周辺のひととか不知火海周辺のひとが多かったんです。水俣病のタブーから逃げ続けて水俣を出たとか、水俣病とは関わらずに死ぬと思ってたんだけど、読んでくれたとか。私のことを書いてくれてありがとう、とか。
 当事者のひとたちがそうやって感想を寄せてくれたのが、すごくうれしかった。痛みを伴ってでも、これから書いていこうと思いました。

――最後に、おふたりから一言ずつお願いします。

朴 私は、当事者にならないことをつねに選択して生きていこうと思っています。それは、そのほうが楽しく生きられそうだからというだけの理由です。正直、ここで並んでしゃべっていいのかな?と思って今日この場に来たし、今でもそう思っています。
 でも、研究と運動は交ぜてはならないし、研究することが運動であるとは考えてはならないと思っています。運動と研究の関係は多分これからも悩むんだろうなあ。
 解決は個人が決めるというのは、その通りですよね。

永野 朴さんが、いま水俣病事件の置かれている状況や位置を言語化してくれて、自分がちょっと冷静になれました。冷静にちゃんとみるひとって必要だと思います。「あんなに努力していろいろな知識を身につける学者は、私たちのためにいるんだ」って思えた。
 それから、もうちょっと楽にいていいんだなって思いました。ひとつ何かをしたら、今日はもう、いいことにしよう。わたしがたくさん頑張らなくても、小さな良いことを、いっぱいのひとがやると、きっと社会は少し、変わるんだと思います。そういう人とつながりあっていきたいです。朴さんも! おともだちになりましょう!
 今日は、どうもありがとうございました。
 

2020年9月16日更新

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永野 三智(ながの みち)

永野 三智

1983年、熊本県水俣市生まれ。2008年、一般財団法人水俣病センター相思社職員となり、水俣病患者相談の窓口、水俣茶やりんごの販売を担当。同法人の機関紙『ごんずい』に「患者相談雑感」を連載する。2014年から相思社理事、翌年から常務理事。2017年から水俣病患者連合事務局長を兼任。著書に『みな、やっとの思いで坂をのぼる―水俣病患者相談のいま』(ころから)がある。

朴 沙羅(ぱく さら)

朴 沙羅

1984年生まれ。専攻は社会学(ナショナリズム研究)。単著に『ヘルシンキ 生活の練習』、『家(チベ)の歴史を書く』(ともに筑摩書房)、『外国人をつくりだす――戦後日本における「密航」と入国管理制度の運用』(ナカニシヤ出版)、編著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版)、訳書にポルテッリ『オーラルヒストリーとは何か』(水声社)がある。

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家(チベ)の歴史を書く (単行本)

筑摩書房

¥1,980

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