ちくま学芸文庫

グローバル化時代の国際政治経済権力構造とは何か
スーザン・ストレンジ、西川潤・佐藤元彦訳『国家と市場――国際政治経済学入門』文庫版解説

先に行われたアメリカ大統領選では、いかにして海外に流出した製造業をアメリカ本国に連れ戻し、雇用を創出するかが一つのテーマとなった。しかし大統領が誰に代わっても、世界各国で異なる労働賃金や貨幣価値、税制等をフル活用して最大限の利益を生み出すことを目的とする多国籍企業に、国の言い分をきかせることなどできないだろう。いまや主権=国家ではないのだ。この問題にいち早く取り組んだイギリスの国際政治経済学者スーザン・ストレンジの代表作を、学部生の時にこの本と格闘したという東京大学公共政策大学院教授の鈴木一人さんに、解説していただきました。

ベルリンの壁が崩壊した数か月後の一九九〇年四月に私は大学に入学し、その一年の間にドイツ再統一やイラクのクウェート侵攻が起こり、まさに国際関係がどうなるか全く見通しが立たない中で勉強を始めることとなった。冷戦を前提に書かれた教科書や国際関係の解説書をいくら読んでもわかった気にならない、モヤモヤした思いを抱えながら本書に出会ったときの衝撃は忘れられない。しかも、この訳書は一九九四年の第二版を基にしているが、その第一版は冷戦が崩壊する兆しも見えていなかった一九八八年に出されていたというのだから驚きである。

それまで国際政治は「現実主義」 「自由主義」 「構造主義(マルクス主義ともいわれていた)」といったアメリカの国際政治「理論」に基づいて、国家の力と利益を中心に国際秩序を理解することが当然のように思われていた。そこにストレンジは安全保障、富、自由、公正という価値を基軸に国際秩序は作られるという前提を置き、それらが安全保障構造、生産構造、金融構造、知識構造という四つの面をもつ、 「構造主義」とは異なる「構造」を描き出した。この時点で、これまでの国際政治理論になじんだ頭にはパニックが起こる。国際秩序は力や利益ではなく、価値が軸にあり、生産や金融、さらには知識や信念、情報といったものまでが「力」になりうる、という世界観は、全く独自のものであり、これまでの国際政治「理論」が表面的なものしかみていないような気にさせられた。

さらに、本書は「国家と市場」を権力構造で読み解くというスタイルをとったのも新鮮であった。これまで「国際政治経済学」といえば、ナイとコヘインの「相互依存論」に基づく国家間相互の経済関係が政治的な関係にどう影響するのかといった、 「関係的権力」の分析が中心であったのに対し、ストレンジは、個別の関係性を超えた「構造的権力」による政治経済秩序があることを示した。しかも、本書の凄みは四つの構造だけでなく、二次的な権力構造として輸送システム、貿易、エネルギー、福祉の四つの分野において、今の言葉で言えばグローバル・ガバナンスの仕組みを取り上げ、そのガバナンスの仕組みの中に権力構造を見出すという視点を提供している点にある。今でこそ、中国の台頭による国連などの国際機関における力関係の変化が当然のように議論されているが、そうした権力構造のスケッチをこの時代に提示していたのは恐るべき洞察力である。

もちろん、三〇年以上前に書かれた本書だけに、現在から見れば物足りないところも少なくない。当時はまだ萌芽に過ぎなかったグローバル化、とりわけ生産と金融のグローバル化については十分くみ取られておらず、アジア通貨危機やリーマンショックのような国際政治経済上の大きなショックが生まれたことを分析するには力不足と言わざるを得ない。また、グローバル化の影としてポピュリズムが台頭するという流れを感じさせる記述は見られない。ないものねだりは承知の上で、この点について、少し掘り下げてみたい。

アメリカの覇権を知らしめるための国家中心主義

国際政治経済学にはいくつかの流儀があるが、その一つに国際政治を経済学的な手法で分析するものがある。ゲーム理論などを用いた国家の利益分析から入るものなどがそれにあたる。また、国際政治の中で経済的なイシューに関わるものを国際政治経済学と呼ぶ場合もある。日米貿易摩擦や国際金融レジームの分析などはそうであろう。さらに、国際政治の秩序構造に経済問題を取り入れていくのも、国際政治経済学となる。例えば日韓関係における輸出管理問題や、米中の間で繰り広げられる技術覇権の問題などが挙げられる。

ストレンジは『カジノ資本主義』など、ジャーナリストであったバックグラウンドから、市場の動きを捕まえ、それを政治的な文脈で解釈するのに秀でた人である。しかし、本書では、国家が前面に押し出され、国家間の権力構造を支える面として生産や金融、知識といったものを組み込んでいる。こうした国家中心主義はストレンジ批判の主要な論点の一つであるが、ここで指摘したいのは、本書はこれまでの国際政治経済学に一石を投じ、新たな視点と分析枠組みを提供するために書かれたものであり、それゆえ、これまでの議論に引きずられて国家中心主義の枠組みにならざるを得なかった、という点である。それゆえ、終章である11章では「国家とは何か」と自問し、 「国家が世界市場経済と一体化すればするほど、怪しげなものになっている」と、国際政治経済を見るうえで、国家が中心であることに疑問を抱いている。

にもかかわらず、ストレンジは最後に「重要なのは、政治権力を備えたアメリカと、この国の内外で操業している大企業間の関係」であり、アメリカの覇権は衰退するどころか、四つの権力構造の面から見ても、アメリカの覇権は増強しているとの結論を出している。この最後の結論に至ったのは、それまで「覇権衰退論」が唱えられ、国際秩序の不安定化が懸念される中、ストレンジは、今後もアメリカは国際秩序の権力構造において覇者で居続けると訴えたかったのであろう。冷戦が崩壊し、国際秩序が流動化する中で、覇権衰退論を排し、アメリカの権力構造をつまびらかにするのが本書の目的だったのではないかと考えたくなるほどである。

つまり、ストレンジは、国際政治経済を国家中心主義で分析することに疑問を持ちながらも、ポスト冷戦の世界におけるアメリカの覇権を明らかにするため、あえてアメリカという国家に焦点を当て、その政治権力と経済権力を握る大企業との関係を描こうとしたのだとみることができる。そしてそれはポスト冷戦と呼ばれる期間を見ていく上で極めて重要な視座を提示したと評価できる。

国家と市場の関係

現代にも通じる洞察を見せ、冷戦後の世界におけるアメリカの覇権維持を見通していた著作ではあるが、どこか物足りないところがある。ストレンジは未来を予測するための「理論」を提示するものではなく、 「分析枠組み」を提示すると本書を位置付けているが、その分析枠組みは不完全なものと言わざるを得ない。その原因は、いみじくもストレンジ自身が感じていた政治と経済の論理のズレをどう調整するかというメカニズムの不在である。

現在では「グローバル化」と呼ばれているグローバルな生産、流通、消費や金融システムの一体化、情報の流通など、一九八〇年代の後半にはすでにその萌芽が見られたものが、本書では当時としては画期的なまでに生産、金融、知識構造として取り入れられている。しかし、ストレンジは「なぜ」生産や金融がグローバル化し、情報が世界を駆け回るようになったのかという「原理」を示さず、あくまでも「現象」として捉え、アメリカの覇権を支える構造としての静的(スタティック)なものとして捉えていた。これはストレンジが「権力構造」という、国際秩序の政治的な側面を静的に捉えるというリサーチデザインをした結果でもある。

しかし、政治も経済も動的(ダイナミツク)で常に変化するものである。特にそれがグローバルな規模で相互に作用しあう中では「構造」といった静的な捉え方では不十分である。

ではどう捉えるべきなのだろうか。その鍵となるのは「国家」という法的、政治的、領域的存在と、 「市場」という経済的、非領域的空間の間のズレを読み解くことである。つまり、国家は法律を作り、政治的権力をもって企業や個人の経済活動をコントロールしようとするのに対し、市場は国家によって規制や税制、賃労働関係や通貨が異なることを利用し、その格差から利益を上げようとする活動によって成り立つ。ストレンジは多国籍企業を、ある特定国家(特にアメリカ)の企業が、権力構造を利用して活動を世界に広げようとする存在と見ているが、多国籍企業はそうした権力構造とは関係なく、生産コストが安く、利益が最大化できる場所で生産し、販売する。税制の抜け穴を利用して、支払う税金を少しでも安く抑えようとする(米国企業であるアマゾンは米国に納税しておらず、アイルランドに利益を集め節税している)。

国家はそうした企業を誘致しようと法人税を競って低くする(いわゆる「最底辺への競争 Race to the Bottom」 )。さらに、国家は自らの財政を賄うための国債を発行するが、その国債はグローバルな金融市場で取引され、国家が財政赤字を増やせば金融市場での信用を失い、最悪の場合、一九九〇年代前半のメキシコや一九九八年の韓国、二〇〇〇年代のギリシャのようにIMFなどの債権者からコンディショナリティを突きつけられ、強制的に緊縮財政を取らざるを得なくなる。つまり、国家と市場はグローバルな規模で相互に影響しあい、動的に変化していく。

その行き着いた先が、グローバル化の影となる、先進国内の経済格差であり、アメリカのトランプ大統領を代表とするポピュリズムの台頭である。グローバル化が進み、自由貿易が世界的に拡大すれば、企業は製造コストの高い先進国から中国や東南アジアなどに生産拠点を移す。その結果、先進国の経営者や株主は豊かになるが、労働者は雇用を失い、生活水準は下がる。その格差を埋めるための国家による富の再分配も、グローバル市場による国債市場の制約などから、かつてのようなケインズ主義的福祉国家政策が取れなくなる。それが結果として貧富の格差を一層拡大させ、国民の不満を生む。国家が富の再分配で経済格差を解消できなければ、その不満を誰か(例えば移民や中国)のせいにし、格差を解消できないエスタブリッシュメントを批判する。アメリカの覇権を支えた「知識構造」はグローバルに拡散し、ロシアや中国による選挙介入やフェイクニュースに犯されるようになる。

もちろん、ストレンジにこうした未来を予測することを求めることは理不尽な要求である。しかし、 「国家と市場」を考える上で、その両者の動的な相互作用を十分に描ききれず、静的な構造に落とし込んでしまったところに、本書の限界があったといえよう。

とはいえ、一九八〇年代に日本やヨーロッパからのチャレンジを受けたアメリカにおいて覇権衰退論が華やかな中で、国際秩序を四つの構造から見通し、アメリカの覇権の強靭さを捉えた本書の価値は現在でも十分にある。今でも、この四つの側面を注視することは国際秩序を形成する上で有用であり、その構造がどうなっているのかを理解することが国際秩序を見る上で重要である。しかし、気をつけなければならないのは、その時点での構造はあくまでもスナップショットでしかない、ということである。国家と市場は不断の相互作用を繰り返し、常に流動的である。本書は副題にあるような「入門」というほど優しい読み物ではないが、本書を入り口に、国家と市場のダイナミックな関わり合いを読み解いていくことで、これからの国際政治経済を理解できる分析枠組みに発展させていくことは、現在でも国際政治経済学の課題である。