はじめに ―― 不確実性の時代におけるロシアの軍事戦略
「今や米国にとっての第一義的な懸念はテロリズムではなく、国家間の戦略的な競合である」(米国防総省『国防戦略』2018年)
「ポスト冷戦」時代の終わり ―― 揺らぐ国際秩序
筆者の研究室には、『ミリタリー・バランス』と題された年鑑が何冊か置いてある。英国の安全保障シンクタンクとして知られる国際戦略研究所(IISS)が毎年発行しているもので、その名の通り、各国の兵力や保有装備、軍事予算などの情報がズラリと並ぶ。
1959年にこの年鑑が初めて発行された当時、これら無数の記号や数字は、まさに世界の軍事バランスを反映したものであった。東西冷戦下においては、米ソのどちらが多くの核弾頭を保有しているのか、東ドイツにどれだけのソ連機甲師団が配備されているのか、有事に航空優勢を確保できるのは東西いずれの側か ―― といった事項がそのまま国家間の力関係にも反映されたからである。
冷戦の終結とソ連の崩壊、そして政治・経済・軍事のほぼ全領域にわたるロシアの凋落によって、こうした古典的な軍事的均衡に対する国際社会の関心は一時的に大きく後退したかに見えた。米国は世界で唯一の超大国となり、西側を中心とする国際秩序に挑戦する勢力はもはや見当たらないように思われた。冷戦後にも戦争という現象がなくなったわけではないが、それはテロ集団や「ならず者国家」に対するものであり、大国同士が総力を挙げて戦うような時代は遠くに過ぎ去ったと見られていた。
だが、2014年のウクライナ危機は、状況を再び大きく変えた。突如として現れた覆面の兵士によってウクライナ領クリミア半島が占拠され、これに続いてドンバス地方でも紛争が始まるという事態に直面したことで、忘れられていた国家間の軍事バランスに再び世界の関心が集まったのである。続く2015年になるとロシアは中東のシリアにも軍事介入を行い、改めて世界を驚かせた。
ロシアに限らず、2010年代以降の世界では、既存の秩序が大きく揺らいでいるとの認識が強まった。猛烈な経済成長を遂げた中国が軍事力の近代化や海洋進出を進め、西太平洋における米国の軍事的覇権をも脅かすようになったこと、北朝鮮やイランが核・ミサイル開発を大きく進展させたことなどはその一例である。2014年にイスラム過激派勢力「イスラム国(IS)」が突如として台頭し、イラクからシリアにかけての幅広い領域を支配して「カリフ制の再興」を宣言したこともここに数えられよう。
しかも、この間、冷戦後秩序の中心にあった西側社会もまた、内部から大きく揺らいでいた。中東の動乱によって流入した大量の難民が欧州における人種差別的感情を搔き立てたことに続いて、2017年には「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプ米政権が成立し、グローバルな秩序の担い手から退く姿勢を鮮明にし始めたためである。
さらに2020年11月の米大統領選で民主党のバイデン候補を前に敗北を喫したものの、トランプ大統領の得票数は2008年の大統領選でのオバマ候補(後の第44代大統領)の得票を上回る7400万票以上にも及んでおり、米国が超大国としての地位に本当に復帰してきたのかは未だに予断を許さない。
いずれにしても、米国が国際秩序の揺るぎない中心であるように見えた「ポスト冷戦」時代からほんのわずかの間に、世界のありようは大きく変わり、混沌とした「ポスト・ポスト冷戦時代」へと突入しつつあることだけは明らかであろう。