軍事力の「効用」
ただ、客観的に把握しうる諸指標においては、米国は未だに世界最強の地位に留まっている。軍事面に限って言えば、米国は世界最大規模の兵力とこれを世界中に展開させる戦力投射能力を有しており、兵器の性能、戦略核戦力、同盟ネットワークに関しても米国に比肩する国は現れていない。一方、本書のテーマであるロシアは、経済力や科学技術力はもちろん、核戦力を除くと軍事面でも米国に対して劣勢であり、もはや米国と並ぶ超大国とは言えなくなった。
だが、ロシアが軍事力を駆使して現代世界における存在感を大きく高めたことは前述のとおりである。しかも、これらの軍事力行使は米国を中心とする国際秩序に公然と挑戦する形で行われたものであった。
では、軍事バランスでは劣勢にあるはずのロシアがこのような振る舞いに及び、実際に成果を収めることができたのはなぜなのか。そこには古典的な軍事力の指標 ―― 『ミリタリー・バランス』のページに並ぶそれ ―― では測りきれない要素が働いているのではないか。これが本書における中心的な問いであり、以下ではこれを様々な角度から検証していくことにしたい。
ここでは、その出発点として、ルパート・スミスの著書『軍事力の効用』を紹介しておこう。NATO欧州連合軍副最高司令官を務めた元英国陸軍軍人のスミスは、21世紀の現在においては「戦争はもはや存在しない」と述べる。スミスによれば、核兵器の登場によって、20世紀後半以降の世界では古典的な国家間戦争を遂行することは不可能になった。核兵器を用いた国家間の大規模戦争は人類の破滅を意味しており、戦争によって達成されるべきあらゆる政治的目的を無意味にしてしまうからである。
こうして、現代の世界では「大多数の一般市民が経験的に知っている戦争、戦場で当事国双方の兵士と兵器のあいだで行われる戦いとしての戦争、国際的な状況のなかでの紛争の決め手となる大がかりな勝負としての戦争、こうした戦争はもはや存在しない」ということになった(スミス2014)。
他方、だからといって、軍事力が無意味になったわけではない、ともスミスは述べている。国家間の大規模戦争は戦争の一つの形に過ぎないのであって、それとは異なった形の戦争というものは無数に想定しうる。そして、それぞれの戦争の中では、軍事力は戦闘以外にも様々な使い道 ―― 「効用」を発揮するのだという。
以上の見方は現代ロシアの軍事戦略を理解する上で非常に多くの示唆に富む。本書の第1章で見るように、冷戦後のロシアは欧州正面における「戦略縦深」を大幅に失い、兵力の面ではNATOに対して劣勢となり、軍事力の近代化でも西側諸国にはかなわないという事態に陥った。それゆえにロシアは軍事的にももはや大した脅威ではないとみなされてきたわけだが、これは「戦場で当事国双方の兵士と兵器のあいだで行われる戦いとしての戦争」(同上)を前提とした場合の話である。
ウクライナで実際にロシアが用いたのは、国家・非国家を問わずに幅広い主体を巻き込み、現実の戦場に加えてサイバー空間や情報空間でも戦うという方法であった。このような戦い方は西側諸国において「ハイブリッド戦争」と名付けられ、現代の安全保障を語る上で必須の概念となりつつある。
冷戦後、軍事的にも経済的にも超大国の座から滑り落ちたロシアは、なぜ世界的な大国であり続けられるのか? 国際秩序が揺らぎ、戦争も形を変えたかに見える現在、劣勢下の旧超大国は、戦争と平和の間隙を衝くハイブリッドな戦争観を磨き上げて返り咲いた。新しい戦争の最前線とロシア暗躍の全貌を活写した、ちくま新書『現代ロシアの軍事戦略』より「はじめに」を公開いたします。