筑摩選書

「連帯」という言葉は手垢に塗れている。だからといって、それは人間に不要ということはならない。長きにわたって喧伝されてきた「自助努力」や「自己責任」といった考えでは覆い切れない人間の在り方とは何かー―。馬渕浩二著『連帯論』はそのことを歴史的視野から包括的に論じた渾身作です。同書より「まえがき」をお届けします。

 連帯の思考が必要とされている。人間は、そして人間が住まうこの世界は、連帯という視点から光が当てられ、描きとられなければならない。そのようなテーゼを掲げ、連帯論の沃野を探索すること──そのことが本書で試みられる。もしかしたら、このような試みは、一個のアナクロニズムであるのかも知れない。なぜなら、考えようによっては、連帯という言葉は「賞味期限」が切れた言葉に成り下がっているからである。かつての反体制の嵐が吹き荒れた政治の季節なら、連帯という言葉は、人々を突き動かすほどの激しい力をもっていたことだろう。また、連帯という言葉を用いることで、見落とすことの許されない大切な何事かが表現されていたに違いない。たとえば、あの「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉は、そのような力が連帯という語に宿っていたことを思い起こさせる。だが、今日、連帯という言葉は、そのような力強さや輝きを失ってしまったのではないだろうか。つまり、連帯という言葉は、それ相応の歴史とともに使い古され、新鮮さを失い、毒にも薬にもならない平凡な言葉に変質してしまったのではないか。その証拠に、たとえば、一国の政府の反動的な指導者が、「テロ」の標的となった異国の市民との「連帯」を表明することがある。あるいは、ソーシャル・ネットワーク・サービスの画面に映し出されたアイコンをクリックするという、たったそれだけのことが「連帯」として語られることがある。連帯という言葉は今日それほどまでに手軽に用いられるようになり、共感や同情という「気分」を表現するための薄っぺらな記号と化している。このような時代診断を共有する者たちの眼には、連帯という手垢に塗れた言葉を主題とする本書は、時代遅れの試みに映るに違いない。
 連帯という言葉が手垢に塗れてしまっていることを、本書は否定しない。しかし、本書は、連帯という言葉は捨て去ることのできないものであり、彫琢するに値する言葉であると主張する。なぜだろうか。それは、この世界が連帯という言葉で表現するほかない出来事で溢れているからである。一例を挙げるなら、3・11の大震災を経験した者たちにとって記憶に新しいように、大災害のあとに見出される相互扶助がそうした出来事に数え入れられるだろう。さらには、この世界は、連帯することによってしか解決しえない問題で覆われてもいる。たとえば、地球規模での深刻な気候変動の問題、一国内の、そして地球規模での貧困や格差の問題、あるいは根強い差別の問題などは、たった一人の英雄的な行為によって解決されるものではなく、その解決には人々の大規模な協力が必要とされる。また、この度の世界規模のコロナ禍対策において、あるいはBLM(Black Lives Matter)のような様々な社会運動において、相互扶助や連帯という言葉がふたたび象徴的な言葉として用いられるようになった。このことは、連帯という言葉がいまなお命脈を保っていること、そして必要とされていることの証拠ではないだろうか。これらの出来事は、連帯という言葉で正確に言い表され、記録され、思考されなければならない。その意味で、連帯という言葉を捨て去ることはできないし、それを有効な概念として使い続けようとするのなら、それは彫琢されなければならない。連帯論が必要とされる所以である。
 新自由主義の過去数十年にわたる影響のもとで、自助努力や自己責任という発想が持て囃されてきた。たしかに、一人ひとりの身体と、そこに宿る生命はその人のものであって、他の誰もそれを生きることはできない。生きてゆくために当人が努力しなければならないことも事実である。それだから、自助努力や自己責任の主張は一面では正しい。しかし、この主張を不当に全面化することは避けなければならない。なぜなら、そのことによって、人間に関する一個の真理が覆い隠されてしまうからである。それは、他者たちに支えられなければ、人は生きられないという真理である。新自由主義は、この連帯の真理を抑圧し隠蔽してきた。だが、自助努力や自己責任という発想が妥当する領域など高が知れている。それは、人間の生という氷山の一角にすぎず、その下には分厚い連帯の層が存在し、その山頂を支えているのである。新自由主義の狭隘なイデオロギーに抗して、人間は連帯的存在として見出され、思考されなければならない。この本に書き留められているのは、そのような連帯の思考の一端にほかならない。

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