そして無能
さて、本来の疑問に戻ろう。どうして、人は予定説の神を信じるのか。なんの利益もなさそうな予定説を信仰する者がいるのはどうしてなのか。
ここに述べてきたように、予定説の神は、完璧な全能性によって特徴づけられる。このような神への要請、このような神が求められる原因は、逆に、神の無能性への不安ではないか。これが、ここで提起しておきたい仮説である。どのような趣旨なのか、説明しておこう。
理不尽な(ものに見える)苦難や不幸や悪に直面したときに、人々が抱く感情は何であろうか。信者は、このような体験において何を感じるか。一般には、自分たちを救うことができなかった神に対する不満や失望であると考えられている。このとき人は、どのように反応するだろうか。救済の約束を果たさなかった神を見捨てることであろう。そして、別の神を、「ほんとうの神」として信仰することになるだろう。
だが、このように反応できるとき、人は未だ、苦難を、最大の深みにおいては体験してはいない。苦難があまりに大きく、修復しようもないとき、人を襲う感情は、重い不安ではないか。何が不安なのか。神は、「われわれ」を救うことができないのではないか、という不安だ。神は、救済の能力をもたないのではあるまいか。神は無能なのではあるまいか。唯一の神に対してこのような不安をもったとき、その不安は、癒しようのないものとなる。どこか別に有能な神がいるわけではないからだ。そして、神が根本的に無能だとすれば、それは、神が事実上存在しないことになるからだ。
この不安を超克する方法がひとつだけある。大きな苦難や不幸や悪、現実に生起する理不尽な出来事のすべてを、神がもともと予定し、欲していたことと解釈しなおすのである。このとき、人間の観点からは、神の真意、神がほんとうに意図していることが何であるのかは、理解できない。だから、人間の眼には、それらはまったくの偶然であり、また気まぐれのように見える。しかし、神自身にとっては、そうではないかもしれない。苦難や不幸も含めて、すべて神の救済の計画の実現過程であるかもしれないのだ(人間には不可解だとしても)。このように解釈を転換したとき、神の無能性の徴に見えていたことが、まったく逆に、神の全能性の証拠へと反転して現れることになる。
こうして措定されるものこそ、全知全能の予定説の神ではあるまいか。この神は、人間に何の利益ももたらしていないように見える。しかし、神の事実上の不在を暗示している、根源的な不安に、この神は応えているのだ。このとき、ほんとうは、客観的に見れば、人間の方が神を救っているのだ。神の失敗、神の無能を、神の有能、神の全能の証拠と読み替えることによって。しかし、信者たちは、これを転倒して表象する。神が――神の方が――われわれを救おうとしているのだ、と。
もう一度、ニューカムのパラドクスのことを振り返っておこう。このゲームで、ほんとうは、予見者の予見が当たったわけではない。そうではなく、行為主体の方が、予見が的中しているということを前提にして行動しているのだ。だから、予見はトートロジルカルな必然性をもって成就する。これと同じ心的操作が、神の無能性への不安に対してもなされている。このとき、無能性から全能性が案出される。
われわれの主題にとって重要なことは、マックス・ヴェーバーが、予定説を、資本主義の精神の源泉として見ていたことだ。ここでの考察と合わせてみれば、ヴェーバーのこのテーゼは次のことを含意していることになる。すなわち資本主義は、人間の最も深い神学的不安に対する、必死の、そして最も効果的な対処法だった、ということを、である。
(1) イマヌエル・カント『実践理性批判』熊野純彦訳、作品社、2013年。
(2) ジャン・ボダンが基礎づけた主権概念では、この点が顕著である。