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第3回 われらは傷を修復する――『進撃の巨人』論(3)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
最終回となる第3回は、累計発行部数が世界で1億部を超え、今年完結を迎えた諫山創『進撃の巨人』(2009~21年/講談社)。この歴史に残る作品は、いかに歴史を描いたのでしょうか。

●なぜ生きるのか

「今起きていることは… 恐怖に支配された生命の惨状と言える/まったく無意味な生命活動がもたらした恐怖のな…」【54】
「案外… 事切れる前は ほっとするのかもな…/何の意味があるのかもわからず…/ただ増えるためだけに…/踊らされる日々を終えて…」【55】

 多大な苦痛の中にあってなお、巨人が支配する世を永遠に続けよ、というフリッツ王の指示に従い続けたユミルを見て、ジークはこのようにつぶやく。
 ジークはユミルの民の生殖機能を消失させる「安楽死計画」を目論んでいたが、ユミルがエレンに味方したために失敗し、生の意味を考えながら「道」で途方もない時間を過ごしていた。〈自分たち〉を殺して不自由を離脱しようとしたジークと、〈自分たち以外〉を殺して不自由を否定しようとしたエレンは、思想上の対称性を持つ。
 ジークのセリフに登場する「恐怖」は、重要なキーワードだろう。「勝てば生きる 負ければ死ぬ/戦わなければ勝てない」――前半では無力な人間が巨人という圧倒的暴力に立ち向かう構図に、後半では他国の軍事力に怯えた国が自国の軍備を加速度的に増強させてゆく構図に、同じ言葉が用いられる。単純化された狭い世界の中では生きるために必要とされた脅迫的な恐れが、世界の広がりとともに国家間の戦争を煽る感情へとその色を変えるのだ。ジークの言う通り、生を支配するものが常に恐怖であるなら、確かに人がこの世に生まれてくる限り戦争は消えないし、人――ジークの想定する生まれるべきでない人とは、エルディア人に限定されるが――は生まれない方が正しいのかもしれない。
 だがジーク自身、世界を単純に見ているところがある。それが人間を「生命」として捉え、生命のあり方をその機能に収斂させて語っている点だ。「道」でジークに出会ったアルミンは、生への諦念にだらりと浸かるジークに、こう語りかける。

「あれは夕暮れ時 丘にある木に向かって 3人で… かけっこした/言い出しっぺのエレンがいきなりかけだして… ミカサはあえてエレンの後ろを走った…… やっぱり僕はドベで…/でも…その日は風が温くて ただ走ってるだけで気持ち良かった… 枯葉がたくさん舞った その時… 僕はなぜか思った…/僕はここで 3人でかけっこするために 生まれてきたんじゃないかって…/雨の日 家の中で本を読んでる時も/リスが僕のあげた木の実を食べた時も/みんなで市場を歩いた時も …そう思った」【56】

 これらの語りは、アルミン自身が言う通り「なんでもない一瞬」【57】であり、「無意味な人生」への失望に対する作品の回答――人生の無意味さの中にこそ生まれてきた意味がある――の提示だ。個々人の些細な経験のきらめきが、「生まれてこないほうがよかった」可能性を追い越してゆくのである。生は苦しく、残酷である。それを言葉を失うほど執拗に描いてきた作品であるがゆえに、この答えは説得力を持つ。

「始祖ユミルの心の奥深くまで理解することはできない でも…彼女が自由を求めて苦しんでいたのは確かだ/二千年間ずっと… 愛の苦しみから解放してくれる誰かを求め続け… ついに現れた/それがミカサだ」【58】

 物語の終わり、エレンは最愛の人を殺害する覚悟を決めたミカサによって殺される。そしてミカサの選択を眺めていた始祖ユミルが愛の呪縛から解き放たれたことによって、世界から巨人の力は消失するのだった。
 この流れはユミルの民の「解放」のように描写されるが、マイノリティがそのマイノリティ性を喪失したがゆえに世界に受け入れられる、という残酷な展開である。作中、「忌むべきは巨人の力ではない/それに飲み込まれる人の弱さだ」【59】という言葉がマーレ人であるイェレナの口から語られ、ジークはそれを壁を隔てて、、、、、無表情で聞くシーンがあるように、巨人化能力の喪失を望むのが誰よりもユミルの民に属す人びとであるのは、実に現実的で生々しく、むごい。
 そして始祖ユミル、そしてミカサは、いずれも許し難い悪行を犯した者を愛してしまった点が共通している。ユミルは愛ゆえに2000年間を苦しみながらフリッツに従って過ごし、ミカサは愛ゆえに虐殺者エレンの殺害を限界まで躊躇った。ユミルに邂逅したミカサは、このように告げる。

「あなたの愛は長い悪夢だったと思う もう…奪われた命は帰ってこない…/…それでも/あなたに生み出された命があるから 私がいる」【60】

 このセリフとともに示されるのが、槍を受けて絶命するフリッツ王に背を向け、3人の娘を抱きしめるユミルである。が生まれ、そこにいること。『進撃の巨人』はその過程に介在する苦しみを描いた上で、個々の生命を「そこにあるから」という理由で肯定し切るのだ。ユミルの民の「解放」も、ミカサの選択が巨大な戦争を止める、という「愛」に多くを託し過ぎた結末も、本作が血みどろになって語り続けた「すでにそこにある存在」の絶対的価値を考えると、もはや読み手の思想を超えて、静かにうなずくほかなくなってしまう。

「特別じゃなきゃいけないんですか? 絶対に人から認められなければダメですか?/私はそうは思ってませんよ 少なくともこの子は…/偉大になんてならなくてもいい 人より優れていなくたって…/だって…見て下さいよ/こんなにかわいい/だからこの子はもう偉いんです/この世界に 生まれて来てくれたんだから」【61】

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