ちくまプリマー新書

神はなぜ「カミ」というのか? 語源・由来・その姿の謎

『神話でたどる日本の神々』より本文を一部公開

メンタルが弱かったり、戦に負けたり、浮気しちゃったり…人間味あふれる姿で描かれてきた神さまと、日本人の関係をたどる平藤喜久子著『神話でたどる日本の神々』(ちくまプリマー新書)の第一章より、本文の一部を公開します。

 授業で日本の神話の話をしていると、「神さまなのにメンタル弱い」とか、「神さまなのにそんなひどいことをするのか」、「神さまなのに負けるのか」といった感想に出くわすことがあります。ときには「神さまなのに浮気なんかして」と怒る人も。この「神さまなのに」という言葉が出てくるのは、神に対して、知力や武力が圧倒的に優れていて、特別な力があり、人格(神格?)的にも優れている、完全無欠とでもいうようなイメージを抱いているからではないでしょうか。

 たしかに神社にお参りするとき、人は、神に大事な願いを託したりします。幸福を授けてくれる人間を超えた特別な存在。失敗や間違ったことはしないだろうと思うのは当然かもしれません。神とはなにか、について真剣に考えたことはなくとも、なんとなくそんなイメージを漠然と抱いているのではないでしょうか。

 ここで神について少し考えを巡らせてみましょう。神というと神社にお祀りされていますね。わたしたちを日々見守ってくれる、そして健康や学業成就、縁結びなどさまざまな祈願をされています。ありがたいもの、とされています。少し視野を広げて落語や小説、マンガなども含めてみると、疫病神や貧乏神、さらには死神など、恐ろしげなものも浮かんできます。あまりありがたくはなさそうな神もいそうです。危機に陥ったとき、「神様仏様! 助けて!」と願ったり、「この世には神も仏もないのか!」と嘆いたりする場面、見たり聞いたりしたことはないでしょうか。どうも神と仏が同じようにとらえられている節もあります。そう考えてみると、どうやら神とはなかなかに複雑な存在のようです。この章では、神について語源や姿、歴史から考えてみましょう。

神=カミはどこから?

 知っていそうで知らない「神(カミ)」。その語源も謎に包まれています。神の語源は、長い間、「上」(カミ)であるとされてきました。たしかに神といえば天、すなわち上の方にいるもののように思われますので、納得できそうです。ほかにも「鏡」(カガミ)であるとか「畏み」(カシコミ)に由来するといった説もありました。鏡をご神体にすることや「畏れ多い」ことを「カシコシ」(接尾辞「ミ」をつけるとカシコミ)ということを考えると、どれもなるほどと思います。しかしながら、現在では、どれも神(カミ)の語源ではないといわれています。

 古事記や日本書紀、風土記、そして日本最古の和歌集である万葉集が編纂された奈良時代は、日本語をすべて漢字で書いていました。漢字は表意文字といって、字が意味を持っています。しかし、それを日本語の音を表記するために、表音文字のようにして使っていました。たとえば山をヤマという音で伝えたい場合、「也麻」と書いたりするのです。これらの漢字は万葉集でよく使われていることから「万葉仮名」と呼びます。神(カミ)についても、神と書くことが多いのですが、万葉仮名でも記されることがあり、その場合は「迦微」、「柯微」、「可未」などと表記されます。問題はこの「ミ」です。万葉仮名の研究により、実は古代の日本ではキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・モ・ヨ・ロとその濁音には、二種類の発音があり、仮名を使い分けていたことがわかっています。その二種類は、便宜上甲類と乙類と呼ばれています。神(カミ)のミには、先ほども挙げたように「微」や「未」が使われます。これは乙類のミです。しかし、「上」(カミ)、「鏡」(カガミ)、「畏み」(カシコミ)のミには、「美」や「弥」が使われます。甲類のミであるため、神(カミ)のミとは異なる発音になります。ローマ字でその発音を書き表すと、神のミはmï 、上や鏡のミはmi となります。つまり、もともと異なる発音なので、これらの言葉は神(カミ)の由来だとはいえないということです。今ではこうした発音上の区別はないのでわかりにくいかもしれませんが、古代の日本語の研究からは、今のところ神の語源は不明だとする結論になりそうです。

神はどんな姿をしているの?

 神は、その言葉の語源、由来だけでなく、姿も謎にみちています。神についてのもっとも古い記述を残す古事記によると、神々ははじめ「成った」、つまり自然発生的に生まれてきたとあります。最初の神は、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)、カムムスヒ(神産巣日神)といいます。天の中心の神、ムスヒ(生じる力)の神ですから、抽象的な存在のようです。性別もはっきりしません。ほかにも野の神、山の神、風の神など、自然そのものであるかのような神も登場します。

 今も日本では山や岩などの自然物に神が宿ると考え、神そのものとして祀っているところがあります。神の宿る山(神体山)といえば富士山がありますし、しめ縄の張られた神の宿る岩(磐座)、木(神木)を見かけたことがある人は多いでしょう。こうした自然物を神としていたのは古くからのようです。古代の神祭りの様子を知る手がかりとされる場所に奈良県桜井市の三輪山があります。美しい円錐形の山で、山中の山ノ神遺跡(四世紀から六世紀頃)では、巨石の下から勾玉などが出土しています。稲作が各地に広まった弥生時代頃から、作物の実りを神に祈ることが行われるようになったようですが、そのときの神は自然のなかにあるもの、自然そのものと思われていたのかもしれません。

写真:三輪山

 日本神話の最高神アマテラスは、天照大神と表記することからもわかるように、太陽の神です。第四章で詳しく紹介しますが、太陽そのものであるかのような神です。だからといって太陽そのものの姿かというとそうではなく、衣服や髪型、装飾品についての記述もありますので、人間と同じ姿形でイメージされていたのでしょう。第六章で取り上げるオオナムチ(オオクニヌシ)も、姿が美しく、おしゃれだったようで、色とりどりの服を取り替える歌なども伝えられています。おかしな言い方かもしれませんが、人間らしい姿形の神々もいると思われていたのでしょう。しかし、そんな神々が人間たちの前に姿を現すことはほとんどありません。第五章の神功皇后は、神がかりをして神の言葉を述べますが、アマテラスと出会うことはありませんでした。

 同じ第五章に登場するヤマトタケルが出会う神は、白い猪の姿。神武天皇が熊野で出会う山の神は熊の姿をしています。第八章でもいくつか紹介しますが、動物の姿をした神もいます。神とはこのような姿をしている、といった共通のイメージは持たれていなかったと考えることができます。

 さて、ヤマトタケルが出会った神は、彼に死をもたらします。神武天皇の場合も、神は人々を昏倒させてしまいます。神とは人々に福をもたらすだけではなく、ときに災いも与えるものであることがわかります。

 もちろん今と同じように、神に安全を願うことも行われていました。万葉集には「天地の神も助けよ草枕 旅行く君が 家に至るまで」(巻四・五四九)という歌が伝えられています。石川足人が、大宰府から転出するときの別れの宴で詠まれたもので、神に旅の無事を願っています。

 こうして古代の神々について考えてみると、恐ろしい面、ありがたい面、どちらも持っており、また姿形もいろいろあることがわかります。すでに複雑ですね。


 

メンタルが弱かったり、
戦に負けたり、浮気しちゃったり…
神さまなのになぜ?