ちくまプリマー新書

2050年にまた1年近づいた今…! 未来の地球環境について科学で考える
『2050年の地球を予測する』より本文を一部公開

異常気象がほぼ毎年起こったり、伝染病が拡大したり、シロクマが絶滅するかも?――環境問題は短絡的に結論を出したり、感情論で突っ走ったりせず、落ち着いて考えることが大切です。好評発売中の『2050年の地球を予測する』(ちくまプリマー新書)より「はじめに」を公開します。

環境破壊が理由で地球は滅亡する?

 学校の授業でもテレビでもインターネットのニュースでも、「地球環境があぶない!」みたいなことをよく聞く。そして、環境破壊を止めようとして多くの人たちががんばっている。僕ら研究者もそうだし、エコバッグを使ったり部屋の電気をこまめに消したりしているみなさんもそうだろう。そんなとき、「じゃあ環境問題をぜんぶほったらかしにした最悪の場合、地球はどうなるんだろう?」という素朴な疑問が生じるのは自然なことかもしれない。

 環境問題で地球が滅亡するのだろうか。これについては、まず、滅亡の定義を考えなければならない。滅亡が、天体としての地球が滅亡する(地球が爆発する? 真っ二つに割れる? 太陽系外に飛んでいく?)という意味ならば、大丈夫。人間がどんなに地球上で無茶をしようとも、地球は大丈夫だ。地表面が環境破壊でどうなったとしても、宇宙空間から見た地球は何も変わらず自転し、太陽の周りを公転し続けるだろう。いつの日か太陽系が消滅するまで。

 それでは、人類が滅亡するという意味ではどうだろう? その可能性はゼロではないけれど、あまり高くはないと思う。人間は適応能力に優れた生物。気候変動で地球が高温化し、いろんなもので汚染されたとしても、なんとか生きていくことはできるはず。もちろん、環境問題のせいで快適な暮らしができなくなったり、地球が養うことのできる人口が減少したりという悪影響はじゅうぶんに考えられるけれど。

 となると、文明や文化が滅亡するというのはどうだろう。人間は絶滅しないものの、現代文明が滅亡する可能性はそれなりにあるかもしれない。というか、考え方を変えると、現代文明の少なくとも一部分は滅亡しなくてはならないのである。それは、現代文明は持続可能じゃないから。たとえば、化石燃料をガンガン燃やして暖房した家のなかで、真冬にTシャツで過ごしてアイスクリームを食べてみたりとか、大排気量の巨大な車にひとりで乗車して毎日通勤するとか。こういうたぐいの人間の行動は滅亡するかもしれない。むしろ滅亡しないといけないとさえ思う。

 最後に、地球が「楽しい星」としては滅亡すると考えるとどうだろう。わざとあいまいな「楽しい」という表現をしてみた。地球で暮らす楽しさは人それぞれだけれど、思いつくものを挙げてみると、その土地の個性と歴史があって、自然の生態系があって、そこに適応した動物や植物が生きている場所であること。きれいな空気と水、食べものが手に入って安心して暮らせる場所であること。地球は、このように僕らが「ずっとここで暮らしたいな」と思うような場所であり続けられるだろうか。

 かなり大げさになるけれど、もし地球上からパンダとペンギンが絶滅したら、僕にとっての地球は、楽しい星としての価値は大きく減少してしまうことだろう。毎日生きてごはんを食べることはできたとしても、パンダとペンギンのいない星で食べるごはんは少しだけパサパサに感じるかもしれない……!?

 パンダとペンギンを偏愛する僕のことはほっとくとしても、みんなそれぞれ「地球のよいところ」を感じていることだろう。その地球のよいところがなくなると、僕らの体は生きていても、こころはとても寂しいものになるかもしれない。そういう意味では、地球が住人にとって「楽しい星」でなくなる可能性はあり得るのだ。たとえば、四季の変化にもとづく日本での暮らしの楽しみがなくなるかもしれない。地球温暖化の影響で冬がなま暖かくなって雪が消えるかもしれない。きれいな桜も紅葉も見られなくなるかもしれない。

 こんなかんじで、環境破壊は何か大事なものを僕らから奪い去る可能性がある。そして環境破壊を引き起こしているのは僕ら人間だから、みんなが環境についてしっかり考える必要があると思う。

では2050年は?

 2050年。今世紀の折り返し点である。2050年をこの本のタイトルに入れたのには理由がある。環境問題については、何十年も先のこと、ときには100年も200年も先のことを予期して考えることが重要だけど、あまりに先のこととなると研究者にとっても壮大すぎて、現実味のある予測や提言ができない心配もある。そう考えると、執筆時(2021年)は四九歳である僕がギリギリ寿命がまだ尽きていないかもしれないから、2050年をターゲットにするのはおもしろい気がする。2050年はけっこう先のことのように思われるが、運が良ければ僕はけっこうな確率でそのときまで生きている。そして、この本に書いたことが大きく間違っているなら、読者のみなさんのお叱りを甘んじて受けることが可能になる。

 これが2100年になると、僕はもちろん寿命が尽きているだろう。この本の若い読者のみなさんでさえも、そうかもしれない。このように考えると、2050年というのは僕らがギリギリ「自分ごと」として、ある程度の責任を持って語れる未来なんじゃないかと思うのである。

 このころには、現在中高生のみなさんが僕の年齢くらいになり、バリバリ社会を動かしていることだろう。そんなみなさんには、しっかりと環境問題に関する知識を持ったうえで、状況を俯瞰して考えながら行動してほしいと思う。そのときにふと、この本のことなど思い出してくれたりしたら、著者冥利に尽きるといえよう。

 この本はいちおう、中高生のみなさんをターゲットとして書いている。しかし、「大きなお友だち」である大人のみなさんにもぜひ読んでほしいと思う。環境科学を学ぶのに遅すぎるということはない。そして学んだ内容はなんらかのかたちで、自分の行動に反映されることがあるだろう。スーパーで食材を買うときでも、自家用車を買うときでも(できれば車は所有しないという判断をする人もいるかもしれない)。そして、選挙で主権者として意思表示するときでも。環境問題を起こしているのは、元をたどればわれわれ一般市民(環境にわるい政策や商品が存在するとしたら、それを選択しているのは僕らなのだ)。だからこそ、環境科学を現代人の必修科目としてお勧めするのである。


 
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