ちくま学芸文庫

美術(史)が見過ごしたポリティクス

リンダ・ノックリン『絵画の政治学』評

ジェンダー、反ユダヤ主義、地方性……。19世紀絵画を、形式のみならず作品を取り巻く政治的関係から読み解いて、美術史のあり方をも問うた名著『絵画の政治学』。本書の刊行当時の状況や、今の日本における本書の意義について、美術史・ジェンダー史研究を専門とする吉良智子先生が書いてくださいました。

 アメリカの美術史家リンダ・ノックリンによる本書が、坂上桂子氏の翻訳で彩樹社から出版された一九九六年、大学三年生だった私は美術史のゼミでノックリンの論文「なぜ女性の大芸術家は現われないのか?」(1971)を学んだ。他学科の授業でジェンダーやフェミニズムについて学んではいたが、「美術史」という分野で再会するとはこのときは夢にも思わなかった。

 それまでの美術史が歴史的な女性アーティストの少なさの理由を「生来的な才能の欠如」に求めていたのに対し、ノックリンは「女性の進出を阻む社会構造」のためであると明快な結論を導いていた。よく考えればアートだけが社会の「例外」であるわけがない。社会的不均衡は美術や美術史の世界にも存在している。その頃ちょうど日本においてもジェンダーやフェミニズムの視点を取り入れた展覧会や研究が、女性学芸員や女性研究者によって次々と開催・報告され始めていた。そして翌年のゼミで講読したのが『絵画の政治学』だった。

 リンダ・ノックリンは今日フェミニズム・ジェンダー美術史の論客として広く知られているが、本書は訳者がすでに指摘しているように、権力をめぐるさまざまな磁場――西洋から見た幻想のオリエント、権威的アカデミズムに対抗する前衛、一点物のハイアートより低く見積もられる挿絵をはじめとした大衆芸術、見る主体としての男性アーティストとまなざされる客体としての女性モデルなど――を俎上に載せ、これまでの美術史が見過ごしてきた「政治」(ポリティクス)を鋭く問い直す。従来の美術史において「普遍的な価値」があるものとみなされてきた「正典」としての作品が、実は「中産階級の白人男性」の価値観でもって構成されたものにすぎないことが鮮やかに論述されている。

 ある作品について単なる「現実の反映」とせず、「それを生み出した人間の欲望の表出」と見なすこのような視点は、「誰が何をどのように見たかったのか/どのようにあって欲しかったのか」を読み解こうとする。こうした姿勢は一九八〇年代の英米圏において、T・J・クラークやノーマン・ブライソンらが探求した「ニュー・アート・ヒストリー」と呼ばれる流れと軌を一にしている。

 本書を「日本人」として読むとき、西欧にとって確かに日本は「オリエント」に含まれる「他者」であることを痛感する。それと同時に日本美術史が朝鮮半島、アイヌ、沖縄などの美術を周縁化・他者化してきたことを考えずにはいられない。他方で「女性」として読むとき、男性アーティストによって描かれた彼らにとって都合の良い女性像にため息が出る。

 このような経験は、人種、ジェンダー、民族、セクシュアリティなど、さまざまな差異が交錯するなかで差別や抑圧が複雑にからみあって生じる構造、つまり今日的な視点では「インターセクショナリティ」から生じる。

 そして現在、性暴力や性差別を告発する#MeToo運動、二〇一九年に開催された「あいちトリエンナーレ」において出品作家のジェンダーを偏らないようにする試み、ジェンダーやフェミニズムに基づいた展覧会の相次ぐ開催、女性アート・コレクティブの興隆など、状況は変化しつつある。だがそれと比較して美術系大学の教育において、女子学生数は多いにもかかわらず女性教員の少なさが一層目立つ。またジェンダーやセクシュアリティに関する教育は充実しているとは言いがたく、何も学ばず卒業する者も多いだろう。

 このような日本の現状を振り返るとき、『絵画の政治学』はむしろますますその重要性を増していると言わざるをえない。本書が美術を愛するたくさんの作り手や受け手に読まれるよう、そして何よりも美術教育の現場で若い学生たちの手に届くよう願ってやまない。