朴沙羅

生活の練習、甘寧一番乗り、証拠集め
『言葉を失ったあとで』『ヘルシンキ 生活の練習』刊行記念

2021年12月11日、代官山蔦屋書店でのオンライントークイベントの書き起こしです。お互いの本の話から、子どものころ何を読んでいたか、原稿をどうやって書いているかまで、楽しいやりとりになりました。


 「言葉を失ったあとで」って書いてあるけど、めっちゃしゃべってるやんって(笑)。

上間
 そうそうそうそう。たぶんね、私たちも思ってた(笑)。私ら、しゃべってるねって。


 でも、内容が重くて。ずっと加害の話なんですよね。そのひとつひとつの例が、きつい。
 加害の例がきついのに、加害者が類型的というか、顔が想像つかない。被害者の一人ひとりは際立って出てくるんだけども、加害者が、たとえ入れ替わっても気がつかないかもしれない。そのずれが、めっちゃ怖かった。3回くらい読んで、どの回も怖かった。

上間
 信田さんが、加害男性は「貧困な経験を貧困に抽象化する」からどうしようもないとおっしゃっていて。信田さんは加害者プログラムずっとされてるから、カットになるかなと思って聞いてたけど、最後まで残してました。
 性虐待していた男親に会う前の日は眠れないけど、会ってみたら本人はしれっとしてるっていうのも。


 そうそうそうそう。めっちゃ怖かった、この話。

上間
 「妻が過保護で困ります」って。


 本を投げそうになりました。

上間
 そういう方と会い続ける信田さんのプロ意識のすさまじさをずっと感じてて、毎回、ドバッと汗かいて終わるんです。話の内容もそうなんだけど、どれだけの覚悟で被害者の言葉を聞いたら、こんなにひどい加害のことやろうと思ったのかっていう。
 私は、絶対いやです、気持ちわるいです、と言って逃げられる場所にいるけど。あれだけ被害者の話を聞いてきたら、どこにくさびを打つか、だれかがやらなきゃいけない。そのことを決めるプロのすさまじさを毎回感じていました。


 被害者と加害者の世界がちがいすぎて。ほんとうに同じ世界にいるのかなっていう。それが何回読んでも怖いんですよね。
 上間さんご自身が東京でやっておられた調査の話をしているときに、男性にとって買春はすごく軽いという話をしていました。100ページだ。「彼らは「買う」んです。それで「買う」話を聞いてわかったのは、実は何も考えてないんだなっていう」

上間
 そこにあるから、行く。時間が空いてるから、する。性行為の位置づけがそうなっていて、聞いても聞いても物語にならないというか。それじたいはもちろん発見ではあるけど、そういうものなんだって。
 あと、ユースフルかどうかが加害者プログラムの中軸になるというのが、被害者にはつらすぎると思って。

信田 (前略)どれだけ自分が家族のなかで困っているのかを話しますよね。つまり被害者性を承認してくれと。それをどのように責任主体への方向にもっていくかというのが、加害者プログラムの根幹なんです。

上間  肝ですね。これは、どうやって?

信田  いくつかポイントがあるんです。そのひとつが、そういうふうにあなたが考えていることを妻が知ったとき、それは妻と今後もよい関係をつくっていくために役に立つのか、と。

上間  あ、有用性を聞くんですか。

信田  そうです、正誤じゃないの。Justice じゃなくて、Useful かどうか。効果(エフィカシー)のあるなしへと、徹底したパラダイム転換を図るんですよ。彼らは、過剰に正しさにこだわってるんです。正義の行使が彼らの行為を正当化させていますから、多くのDV加害者は、そうですよ。
(『言葉を失ったあとで』299-300ページ)


 正義、Justiceじゃだめなんですよね。

上間
 世界が自己完結的になっていて、正義は突破口にならない。これは、腑に落ちてしまいました。
 男のひとたちは上下関係を見るので、信田さんは自分の所長というポジションを使いながら、まずは、「私に評価されたあなた」というかたちで引っかけるとか、それを今度はグループの闘争に転換していくとか。犯罪をおかさないほうがいい生き方ができると強調していく。


 すごく具体的な話がずっと書かれているんですよね。ある種の単語を禁止するとか。

上間
 そうそう、それはこの本が出る意味のひとつだと思う。「自己肯定感」とか、「母の愛」とか、「愛着障害」とか。個人の体験が近代家族の言説にからめとられるまましゃべってても何にも生まれないという。それは、臨床経験の蓄積のすさまじさってかんじで聞いてました。


 わかったような気になっちゃう言葉を禁じるというか。論文でも、その単語を使わないで説明してくださいってあります。博論のときも、「抑圧者」とか「実践」という言葉を使わないで言ってみて、と言われたことがありました。
 思考って言葉でできているので、ある種の言葉を使うことで、思考がなまけちゃうときがありますよね。252ページ、言葉を禁じて何が残るっていうときに、フェミニズムと被害者とアディクションの言葉が出てくる。それを出すためには、言葉を選ばないといけない。ここまで読んでようやく、「ああ、だから『言葉を失ったあとで』なのね」ってなったんですよ。
 上間さんの文章を読んでても思うんですけど、言葉を選んでいる。何回も読み直して、推敲して書いているのか、出てくるまま書いているのか、書いてみて何日かたってから決めるのか。聞いてみたいです。

上間
 うーん。『海をあげる』のほうが説明しやすいのかな。「アリエルの王国」は、ほぼそのまんま。娘を育ててるときに思っている、ここから出ていって、もう戻ってこないっていう。あたりまえなんだけど、そういうこととして子どもを育ててるから、出ていくのをいつも想定してるんですよね。
 だけど、ふたつめのおじいちゃんの話で、海の話を書かないと、なんで海が土砂で壊されていくのがつらいのかという話がわからないだろうと思って、今帰仁の海とつながってるから書こうと思って。この文章はぜんぜんちがうかたちでふたつ書いてて、「花泥棒」で書いたら書けた。
 おじいちゃんって、私にとって謎で。ものすごくおばあちゃん好きだったんですよ。私から見たら、いいとこなんかひとつもないよってひとだったんだけど。お花飾るのだけ好き。それはセンスよく感じよく生けられるけど、ほかにはそれといって美点がない。私にとっての二人の共通点は花泥棒の話だったから、その言葉が出てこないとしっくりこないんだなって思ってました。


 そっか、同じトピックで何バージョンかあるんですね。

上間
 そうそうそう。要素を間違えると、自分がしっくりくるストーリーにならない。
 信田さんが面談記録を書くときに、逐語では書かないとおっしゃっていて。今日だったら何書きますかって聞いたら、「スタバ」「膝掛け」「きれいなチョコレート」って単語をおっしゃって。たしかにそれはその日の話を立体的にするキーワードだったんですよね。
 たぶん、そういうのを見つけて書こうとしているんだなあとは思っています。信田さんは、毎回の面談で、これが中核だという言葉を刻みながらやってるんだなあって。
 沙羅さんは、どういうふうに書いてますか?


 私は、ざーっと書いてしまって。論文だったら査読者に送るとか研究会で報告するとかして、つっこまれたら言われたことをぜんぶ直して。ぜんぶ直した結果、毎回ちがうものが出てきて、査読者が「ぜんぜん1回目と違うやんけ」と思ってるはずです。
 ざっと書いて、何度も直す。たぶん編集の柴山さんは、まだこんなに直すのかって思ってらっしゃるはず。
 自分で声に出して読んだり出したりするんです。科研費やファンドの申請書も声に出して読みます。

上間
 あ、いっしょかも!


 そうですか、よかった! 申請書を出すまえに、自分で「テンションがあがる、よし、いこう!」みたいな。

上間
 やる、やる。


 やりますか? やった、うれしー!

上間
 理屈がつながってるかだけじゃなくて、なにかのテンションというか張りつめ方ってあるから。審査員に足を止めてもらいたいので、そういうのやりますよね。


 カルロ・ギンズブルグの『歴史・レトリック・立証』という本のなかに、レトリックというと今では言葉だけの話のように思われているけどそんなことはないんだ、きちんと立証していく、言い換えればデータを出しながら書いていくことなんだ、という話があったように思います。
 データとその分析と、そこから伝えたいことの三つが、他人が読んだり聞いたりしても納得がいくものであるとき、頭も心も動かされる。それがレトリックの本来の使い方なんじゃないかなーと。ちゃんとデータとか証拠があって、読み手を動かしたいみたいな。
 上間さんの『地元を生きる』でお書きになっているところも、データと伝えたいことがカチッと組み合わさっている。その組み合わさり方がすごいなーといつも思っているんです。レトリックに走るとよくない。言っただけになってしまって、言葉をちゃんと使っていることにならない。
 そうではなくて、実際の調査データなり体験なりがあって、それを言い表すにはこの言葉が必要。その言葉は、全体の構成の中であるべき場所にある。その三つが必然で結びついている。それで、すごいものを読んだってなるんだと思うんですよね。データ、言葉、全体の位置が、これ以外ないっていうかんじで結びついている。
 私は上間さんの文章読むたびに、言葉でこんなことができるんだなって思うんです。それを嚙み砕いて言うと、こういうかんじです。

上間
 そうかなぁってかんじ(笑)。


 いやでも、上間さんの文章とかスピーチとか、言葉でこんなことできるのかっていう感想を持つひとは、私ひとりではないと思います。その感覚を腑分けして、いま言ったみたいになるかはわからないけど。

上間
 褒められているんだなと、いま思った(笑)。ありがとうございます。
 本屋大賞のスピーチはその日の朝書いたんです。スピーチがありますって聞いていて、言いたいことはすでに決まっていたから、言いたいことを書いて、柴山さんとか筑摩の宣伝の尾竹さんの目の前で朗読をして、これで大丈夫かなって。あんまり考えてない。


 実家の母から突然LINEで、「とにかくこれがすごいから今日はこれを聞け」みたいな。見たら、上間さん、賞とってるやんって。

上間
 あ、お母さん! 沙羅さんにお母さんの話聞きたかった。
 私、お会いしたこともあって、シェルターのときもいち早く助けてくれたんです。ほんとにいち早く。スピードがぜんぜんちがう(笑)。何にこちらが困りそうなのかっていう想定がすごいんです。でも、そういう方がお母さんであるってけっこうしんどいんじゃないかなって思いもする。
 本に、お母さんが、あなたたちのためにこれをやっているというのがすごく嫌だったから、そういうふうに子どもに負わせない、私がそれをしたいからやってるという話をクリアにしていくという話もあったけど。そう言いつつ、沙羅さん研究室にお母さん連れてきてくれたりしたじゃない?


 「上間さんに会いたいのー」って。すごい目と眉毛で頼まれたんですよ。

上間
 『atプラス』という雑誌の特集で、岸政彦さんがコーディネートしてくれて最初にお会いしたとき、岸さんから語学の天才ですっごい頭のいい朴沙羅というひとがいるって聞いてたんですよ。だから、お会いしたときに、あ、この方が朴沙羅だって。
 そのあと、お母さん連れてきたときに、賢いひとは親切な娘でもあるんだなあって。


 私の両親は、子どもに対する行状のわりにはまわりの人に愛されているなあと思います。母は女子寮の職員で、入学時点で困っている寮生さんもいただろうし、大学生活を送るなかでこの子もたいへんなことがあったのかと気づく場面もあったと思うから。困ってるひとへのフットワークが異様に軽い。
 藤原辰史さんに、「沙羅さん、あのひとのお子さんだったの? たいへんだったね!」と言われたこともありました。「わかっていただけましたか!」って言ったんですが。
父とは、高校3年間口きかないみたいなこともありましたし、母とも、大学の前半から結婚式あげる直前くらいまでしゃべっていませんでした。でも、結婚式を挙げる直前くらいに、たいへんなこともある人生だったんだねって気持ちになりました。

上間
 私は、お母さんがめんどくさいこと言ってきたら、やらないんです。「私のエリアに入ってこないで」ってあっさり線とか引いて、不親切なんですよね。だから、顔合わせのとき、このひとが朴沙羅なんだって。


 私の上間さんの第一印象は、めっちゃ怖いひとがいる、でしたね。

上間
 えー!


 同意してくれるひと、けっこういると思いますよ。だって、上間さんにはごまかしがきかない。私はごまかしとはったりとかけこみで大体のことを終えてきているので。
 最初にお会いした研究会のときに、上間さんが持ってこられた原稿を読みあげたんです。そのときの声も小さかったんですけど、聞いているうちにその場がすっごい静かになって、私それを聞きながら、めっちゃ怖いひといるわって思いました。
 怖いというのは、暴力的とか威圧的とかそういうことではなくて、ごまかしがきかない。このひとにはだいたい何やってもばれるな、って思いました。

上間
 だいたいずっと感心していますけどね。

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