資本主義の〈その先〉に

第20回 資本主義的主体 part9
8 事前と事後

 

二重の視点

 

 だが、すぐに疑問が出てくるはずだ。今日の資本主義を担っている者たちは、必ずしもプロテスタントではない。確かに、かつて歴史学者のピエール・ショーニュの言葉を引きつつ論じたように、歴史的に見て資本主義の覇権国になってきた国々は、また今日でも資本主義のリーダーになっている裕福な国々は、プロテスタンティズムが優位だったところが中心ではある(1-1)(1-2)(1-3)(1-4)(1-5)。しかし、そのような国々でさえも、世俗化が進捗し、毎週教会に通ったり、聖書をよく読んだりする熱心な信者は少数派だ。行動的禁欲についてのここまでの説明は、世俗化が進捗する以前の段階、啓蒙思想が浸透する前の状況にしかあてはまらないのではないか。

 この問いに答えるためには、われわれは、ヴェーバーを超えて、その先にまで進まなくてはならない。つまり、ヴェーバー自身の議論から、彼が積極的に論じたこと以上のことを引き出さなくてはならない。

 まず確認し、強調しておかなくてはならない。重要なのは行為の形式(のみ)だ、という点を、である。行為が、どのような宗教的な教義によって正当化されていたか、どのようなイデオロギーによって裏打ちされていたか、ということは最終的には問題にならない。形式の点で資本主義に適合的な行為が得られれば、それで十分である。この点をまずは押さえておこう。

 さて、行動的禁欲が、前項に述べたような(神の予期=予定をめぐる)推論に支えられていたとすれば、それは――前回述べたように――二つの視点の精妙な協働の中で展開している、ということになる。事前の視点と事後の視点だ。何の丶丶事前・事後なのか。もちろん、最後の審判である。

 一方で、予定説によれば、人間(信者)は、原理的に、神の予定(決定)を知ることができず、またその決定を変更すべく、それに影響を与えることもできない。神の予定が何であったかを知るのは、最後の審判に臨んだときである。にもかかわらず――いやそれゆえに――信者は、神の予定を知っているかのようにふるまうのだった。信者は、最後の審判における神の判断を(勝手に)先取りし、その結果を既定のこととして前提にしたうえで、その結果へと向かう因果関係をたどるように行動する。このときの神の視点は、信者にとっては、最後の審判が終わったあとに獲得する視点と合致する。つまり、最後の審判の後に、信者がその判決とそれまでの自分自身の人生を振り返ったときに見るものは、まさに神が最初から見ていた(予見していた)ことと同じである。それゆえ、神の視点は、(信者にとっては)最後の審判の事後の視点である。

 つまり、最後の審判を基準にしたとき、一方には、それに未だにたどり着かない視点(事前の視点)があり、他方には、それを既に通り過ぎてしまった視点(事後の視点)がある。この二つの視点の関係ならざる関係が、行動的禁欲を生み出している。両者は、まったくの無関係であるとも言える。人間の視点、事前の視点にとっては、原理的に、事後の視点の内容を知ることができず、それを推測することすらできないはずだからである。しかし、逆に、事前の視点は事後の視点に全面的に規定されている、とも言える。ここに述べたように、事前の視点を担う人間は、事後の視点に対して現れているだろうと想定されていること、そのことをそのままたどるように行動するからである。

 

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