ちくまプリマー新書

感染症に医学で立ち向かった巨人「北里柴三郎」を知っていますか? 海堂尊による決定版伝記

『よみがえる天才7 北里柴三郎』序章を公開

「北里柴三郎なら、今の政府に「ドンネル(雷)」を落としただろう」――日本を揺るがす感染症に医学で立ち向かった巨人・北里柴三郎の生涯を辿る一冊が、ちくまプリマー新書『よみがえる天才』シリーズで登場しました。同時代の盟友ですら捉えきれなかった大人物をどのように描き出したのか? 彼の人生を理解することは、新型コロナウイルスが席巻する現代においてどのような意味を持ちうるのか? 本書の序章を公開します。

 北里柴三郎の名前を聞いたことがある人は多いと思います。2024年には千円札の肖像になることも決まっています。しかし、北里柴三郎の生涯についてはよく知らないという人がほとんどでしょう。

 日本医師会の創設を主導して初代会長を務め、逝去するまでその職にあったことや、慶応義塾大学医学部の創設に尽力し初代部長を務めたことなどは、ご存じの方も多いと思われますが、詳細はあまり知られていません。

 ドイツで当時の世界最高の細菌学者ローベルト・コッホの研究所に留学し、コッホ四天王のひとりとして世界に名を轟かせました。その時の業績が破傷風菌の純粋培養に世界初で成功したこと、破傷風毒素の抗血清を見出し、今日の血清学と免疫学の基礎を打ち立てる論文を発表したこと、などが挙げられます。

 論文の共同執筆者ベーリングは第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

 その業績は北里柴三郎が打ち立てた理論の応用で、本来ならば北里柴三郎も同時受賞しておかしくなかった、とも言われています。

 留学から帰国後は「大日本私立衛生会・伝染病研究所」及び「内務省伝染病研究所」の所長を務め、日本の衛生学の土台を構築するために尽力しています。

 けれども大正3年に「伝研移管騒動」が勃発し、伝染病研究所が内務省から文部省に移管されると、当時の伝研職員が全員辞職して北里柴三郎が創設した「北里研究所」に移籍し、世を騒然とさせました。

 北里柴三郎の生涯を振り返れば、波瀾万丈でありながら、その背骨を一本の太い柱が貫いている、という印象があります。それは公益性の高い「社会貢献」という視点が常に中心に置かれている、ということです。

 熊本県の阿蘇山中の寒村・北里村の庄屋の長男として生まれ、軍人か政治家を志すも両親に反対され、熊本の医学校に入学しました。そこでマンスフェルトという師と出会い本格的に医学を志します。その後上京して東大医学部に入学すると、「同盟社」なる雄弁部を作り、主将として社会における医師の役割を説き、「医道論」という、今日でも通用する論文を残しました。

 卒業後は内務省衛生局に入局して衛生行政に尽力し、日本で初めてコレラ菌を同定し、内務省の官費留学生の第一号に選ばれました。ドイツではベルリンのコッホ研究所に6年半留学し、先述したような医学業績を上げています。

 帰国後、福沢諭吉の援助で作られた研究所が「大日本私立衛生会・伝染病研究所」になり、続いて官立の内務省所管の「国立伝染病研究所」になります。帰国後の北里柴三郎は伝染病研究所の所長として衛生の行政家、つまり医政家の立場を強め、明治から大正にかけて日本の医療制度の土台作りに尽力しました。日本は富国強兵、殖産興業の旗印の下、欧米列強に伍するため近代化に邁進していました。特に大きな課題が国民の健康状態で、中でも感染症予防は喫緊の関心事でした。

 コレラを筆頭に赤痢、天然痘、ペスト、スペインかぜなどの感染症が次々と日本を襲います。「脚気(かっけ)」も大問題でした。当時は「脚気」も感染症と思われていたのです。

 北里は大変わかりにくい人物です。理由のひとつには、彼が自身について語った文章がほとんどなく、多くが弟子や知人の言しかないことが挙げられます。

 そんな中、ベルリン留学時代に知り合い、生涯の盟友となった金杉英五郞の北里評が、彼の横顔をよく表しているように思います。

「北里さんの五十年を通観するに忌憚(きたん)なく申せば、大度量の人でもなく学者肌の人でもなく、寧(むし)ろ才智の人であり、策謀の人であり、精力旺盛にして満身エネルギーであったと観る可きであって、彼の成功は全く非凡のエネルギーが其資本であり、其才智、策謀が之を運転したるものと観るべきであると思う。又其強情の質として忠言者を好まず、屈従者を好んだように思われた。要するに北里さんの性格は或る時は開放主義となり、或る時は極秘主義となり、或る時は極端の官僚主義となり、或る時は極端の野人主義となり、或る時は其温情熱鉄の如く、或る時は冷酷結氷の如く、或る時は豪放磊落(ごうほうらいらく)たる大豪傑の如く、或る時は小心翼々たる小人の如く、或る時は陽気発揚して春草の如く、或る時は陰気鬱積して秋樹の如く、或る時は豪者天下を驚かすもあり、或る時は節約見るに忍びざるもなり、其の変幻出没機略縦横測り可からざるものがあった。若(も)し一定不変の性格を有するものが凡人であるとすれば北里さんは当に非凡の人であったに相違あるまい。しかしながら世人の誤解を受けたのも此性格であり、他人を驚嘆せしめたるも此性格であり、世人より偉大視されたるも此(この)性格であったのだろうと思わるるのである。恐らくは北里さんの真の意志を知りたるものは一家、一族、一門、親友たりとも、一人も無かったのではあるまいか。」(『極到余音』金杉博士彰功会より)

 また金杉はこうも言っています。

「北里さんに就て特筆すべき美点は非常に恩師を重敬したることにて終始一貫コッホさんのみを守りて離れず、在独七年も他の碩学、名士とは殆ど没交渉であったらしく、又同時代の同門生等とも余り親密でなかったように思われた。」

 本書は、同時代の盟友ですら捉えきれなかった北里柴三郎という、日本医学界の巨人の横顔を描き出そうという試みです。著名な医学者でありながら、その人生の概略は、意外に知られていません。それは先述したように、自分のことを語らないということに加え、研究者の人生のわかりにくさも挙げられます。

 北里は明治22年(1889)に破傷風の純培養に成功していますが、彼が発想したのは少なくともその1年以上前で、その後1年はその実験に従事していたはずです。

 つまり彼の破傷風の純培養という仕事は、発表された1年前の出来事なのです。

 実際、発表をした時、彼は血清学の土台になる、その先の研究をしていました。

 北里の人生を理解するには、そのタイムラグは盲点であり、意外に大きなファクターになるのです。私は「奏鳴曲―北里と鷗外」(文藝春秋・2022年2月刊)という小説で、北里柴三郎と森鷗外の相克を描きましたが、北里の人生を書こうとした時に初めて、そこに時間のズレがあるという、当たり前のことに気づかされたのです。

 本書の小見出しに「留学1年目」などと明記したのは、北里の人生を把握するために必須です。従来の評伝には編年体で記述されたものはあまりありません。その意味でこの評伝は北里柴三郎の人生を追体感できる、唯一の評伝だと自負しています。

 医学が進歩し事実が判明した時に過去の誤謬(ごびゅう)が明らかになりますが、その前は混沌としています。細菌学でも北里は多くの誤謬を犯しています。ペスト菌を香港調査団で発見しながらグラム陽性菌と誤認し、後々まで問題になったのはその象徴的な例です。

 日本とフランスでは、ペスト菌の発見者はフランスのパスツール研究所のエルサンだとされていました。でも他の諸外国ではペスト菌の発見者は、北里とエルサンの両名とされ「キタサト= エルサン菌」と呼ばれていました。日本でそうしたことが知られていないのは、北里の立ち位置のせいもあるのでしょう。

 北里は東京大学医学部出身でありながら、母校に反発し続けた異端児でした。

 伝染病研究所創設の際は文部省案に逆らい、結果的にそれを潰しています。アカデミズムの世界で権勢を誇る東大閥の敵なので、北里の評価は不当に貶められています。

 これを機にペスト菌の発見の偉業については、再認識していただけたらと思います。東大閥には不愉快なことであっても、日本が誇るべき医学的業績だからです。

 ライバルのエルサンの母国フランスならともかく、北里の母国の日本でこのような歪曲された理解がされていることは、日本人として悲しむべきことでしょう。

 北里は帰国後、医学的に誤謬を重ねました。コレラやチフスの血清療法、結核のツベルクリン療法など効果のない治療を実施したり、赤痢菌やツツガムシ病の病原菌を誤認しています。伝染病研究所に君臨する「魔王」と呼ばれ、医師会等でも封建領主のように振る舞いました。しかし医学は、誤解と誤謬を是正しながら築き上げられていくものです。ですので偉大なる先人がたどった足跡を正確に理解することは、これからの医学を進歩させていくために、必須のことなのです。

 大正3年の「伝研移管騒動」後、北里は日本医師会の創設、拡充に尽力します。

 独立独歩の一言居士の医師集団をまとめ上げるのは、北里の剛腕なくして不可能でした。実際、医師会創設の動きは明治初期からありましたが、北里が本腰を入れるまではうまくいきませんでした。日本医師会の存在とその活動については賛否両論がありますが、現在でも日本の医療を支える屋台骨であることは間違いありません。

 

 2020年、世界は大きく変わりました。新型コロナウイルスが出現し世界を席巻してパンデミックになったことは世界中の人々が体感しています。

 けれども新型コロナウイルスといえども、衛生学の基本に従って対応すべきであり、その原則は北里柴三郎の時代から少しも変わっていません。

「感染症対策の基本は、感染者を見つけて隔離する」ということに尽きます。

 ところが2020年初頭、日本政府は「PCRを実施すると医療崩壊する」などという、医学的にトンデモな風説を流布し、検査体制の構築を怠りました。それは感染患者を見つける検査であるPCRに対する誤認であり、衛生学の基本から外れています。そして現在の日本政府が衛生学を理解せずにパンデミックに対応しようとした証拠です。

 その意味で医学の進歩は明治時代をはるかに凌駕しているのに現在の日本政府、及び厚生労働省は明治時代より退歩していると言えます。そうしたことを国民が理解し、間違った対応を批判し、是正していれば2021年夏の感染爆発は抑えられた可能性が高かった。つまり衛生学の原則を理解することは、現代に生きる市民の自衛手段であり、同時に社会防衛のための責務でもあるのです。

 現在の社会のていたらくを、空の上から北里柴三郎や後藤新平はどんな思いで見ているでしょう。北里柴三郎なら今の政府にドンネル(雷)を落としたかもしれません。

 彼の人生を理解することは、現在の衛生行政の誤謬を理解する一助になり、その足跡をなぞることで、彼がめざした理想の社会の姿を垣間見ることができます。

 北里柴三郎が直面していた問題は、決して過去のことではないのです。



 

日本の医学と医療の基盤を創った巨人の足跡をたどる本格伝記。
医学研究とは、社会の衛生とは、感染症とどう戦うか――
北里の残した答えは現代にも生きている。