6.曖昧な票のやりとりを超えられるか
図7には、2013年以降の共産党の支持率の推移を示しました。この図からは、第23回参院選(2013年)と第47回衆院選(2014)年では選挙ブーストが起きたのに、近年はそれが見られなくなったことがうかがえます。これには様々な要因があるかもしれません。たとえば反動的な安倍政権の誕生や、集団的自衛権行使容認の閣議決定への批判が当時の勢いにつながった可能性もあります。けれどもやはり気になるのは、野党共闘を始めて以降、多くの選挙区で候補者を降ろしたことが支持率の伸び悩みに関係しているのではないかということです。
第24回参院選(2016年)以降、一本化にむけた候補者の調整には非常な努力が払われてきました。その努力を承知したうえでなお、候補者を降ろした側ばかりが不利益をこうむり、いわば票を取られるだけのものになってしまうなら、それは共闘とはいえないのではないかということを書かざるをえません。
立憲民主党などの候補者は、共産党の票が欲しいかもしれません。けれどもそれならば、降ろした側にも意味があるように、共闘する野党の間でむすばれた政策協定が順守される必要があります。選挙前に期待だけ与えて、後から政策面の肝心な点を曖昧にするならば、それは不信を生んでしまうでしょう。
たとえば立憲民主党の泉健太氏は、関西テレビのアナウンサー新実彰平氏から「衆院選が終わったら、全てちゃらにしますとは、(政策協定の)合意文書には書いていない」との指摘を受けた際、「書いていないから順守ということではない」「党内にも、選挙の時に結んだものだから選挙が終わった時点で一定の役割を終えているとおっしゃる方もいる」と述べています。(2021年11月30日 関西テレビ「報道ランナー」による)
けれども支持政党とは違う候補者をなぜ人々が応援するのか考えてみるのなら、そこに合意や協定があり、当選後にはその実現が目指されることが期待されるからにほかなりません。それにもかかわらず選挙時までの合意にすぎなかったというような発言をするのは、野党共闘に希望を見出して票を投じた人たちの想いを踏みにじることになるのではないでしょうか。
政治家は、自分がこのように話したら人々はどう感じるだろうかということを想像しなければなりません。一つ一つの言動の蓄積こそが党への信頼となるからです。この発言を聞いた人の憤りや悲しみに思いを馳せることができないならば、共闘は消極的に票を集約するだけの、名ばかりのものになってしまうでしょう。そのようにして狭く票をまとめていくのでは、有権者の心を揺さぶるような勢いが出るはずもありません。内実が曖昧にされたまま形式的に票をやりとりしたところで、有効に力が結集されることはないのです。
7.野党共闘が見通しを失った選挙を「闘う」こと
候補者の一本化という野党共闘の形式が有効であることと、何のためにまとまるのかという内実の重要性について議論してきました。野党共闘は2015年の安保法に端を発するため、当時は「安保法を撤廃するために候補者を一本化する」というように、この両方が満たされていたのです。それはいわば、安保法で高まった世論をまとめる電撃戦のようなものだったといえるかもしれません。
けれども時間がたつにつれて安保法への関心が薄れると、野党共闘の目的は次第に明瞭さを失っていきます。候補者の一本化が有効であることはすでに図1で検証したとおりですが、目的が曖昧であるならば、有権者はただ自分の支持政党の候補者が出ていないがゆえに、消極的に統一候補に投票するのにとどまります。前回衆院選や参院選は安倍政権の時期に行われたため、安倍政権が嫌だから野党候補に入れるという投票行動がありえました。しかし岸田政権は不支持率が低いため、そのような票も以前ほどは見込めないはずです。
こうした状況にあって、野党は共闘の根拠をどこに求めていくべきなのでしょうか。野党各党の政策は異なります。また異なるからこそ別の政党としてまとまっているわけです。けれどもどの政党にも共通に、与党の支持者にさえ降りかかる問題があるのです。それは日本の衰退という問題です。かつて一人当たりの名目GDPが世界2位だった日本は、今では28位となってしまいました(それぞれ2000年と2021年のIMF統計による)。それは政治のもたらした結果であり、いま日本では、そうした歴史的な失敗が刻々と続けられています。
日本がなぜこのようになってしまったのかということの一端を、新型コロナは明らかにしました。日本はこの感染症によって生じる打撃を皆で受け止め、危機に対応するようにお金と人を動かして、困難に立ち向かう社会の姿を描くことができなかったのです。緊急事態宣言は自粛を強いる圧力として作用するばかりで、人々の生活を守る政策が十分に行われませんでした。感染のリスクをはじめとして、生じる様々な負担が国民におしつけられ、「自己責任」や「自助」と言って切り捨てられてきました。
こうした不合理なことは、コロナ対策だけではありません。少子化対策や高齢化対策、外交や安保、年金や社会保障、原発やエネルギー政策など、一つ一つのことにもいえるのです。ふり返ってみればバブル崩壊以降の30年間、日本ではずっと一人一人の活躍の場を軽視する政策が行われてきました。労働者の権利が後退し、たやすく解雇される環境がつくられることで、働きやすい環境で働くことがいかに軽んじられてきたでしょうか。そしてまた、ブラック企業が野放しにされ、過労死する人がいる一方で人手不足が騒がれるという倒錯した事態が招かれてきたことでしょうか。一人一人が力を発揮できてこそ社会は発展していくのに、ロスジェネ以降の世代の多くが力を出せないでいる状態です。特定の人たちに「力があるのにそれを活かせない」という状況をおしつけてしまうのは、日本の社会全体の損失です。
この政治を転換しなければ、日本の衰退は止まらず、今後はさらなる歪みが剥き出しになるでしょう。その歪みを前にして、自民党は改憲などを経て、強権的に国民を統制しようとしています。ロシアのウクライナ侵攻をショック・ドクトリン(衝撃的な事件によって人々が混乱し、判断力を失っている状況を利用して、なし崩しに政策を進めていくやり方)のように用いて、防衛費の大幅な増額や改憲へと進もうとしているのも、その一端といえます。
けれどもそれは今の日本が抱える少子高齢化や地方の衰退、教育・子育てなどの問題について、何ら解決をもたらす道ではありません。むしろ防衛費の増額などは、そうした問題を解決するためのリソースを別の方面に割くことになり、必要だったケアが損なわれてしまうでしょう。自民党は「安全保障環境が深刻化している」と主張します。しかしまさに足下にあるこうした様々な問題について「深刻化」とは言いません。それを言う勢力が必要です。
自民党とは別の、バブル崩壊以降の延々と続く衰退と向き合っていくことからしか開けない道があるはずです。政治から距離を置くようになった膨大な無党派層に響くような、これからの日本の方向性を誰かが示す必要があります。そのような展望を開くためにこそ我々は共に闘うのだということが言えるなら、野党共闘は確かな内実を獲得することになるでしょう。そしてそれは、政治に失望した層を再び政治の中に取り戻すということにつながります。
選挙前になると誰もが「無党派層を取り込めば」と言い始めます。けれども無党派層は漠然と獲得されるものではありません。政党や政治家が支持者の期待を背に受けて突き進んでいくようなとき、無党派層はそれにひきこまれるように、淡い期待を抱いてやってきます。第48回衆院選(2017年)で立憲民主党が無党派層の最大の投票先となったのは、そうしたことが実現したからです。
今回の参院選ではその時のような「風」はないのかもしれません。しかし日本社会が抱える問題を根本的に問う、「地熱」のような闘いは可能であるはずです。安易に与党に迎合するのではなく、与党とは根本的に違う道を模索するところから、野党の内実が生まれます。それが無党派層と呼応するとき、はじめて「風」は吹くことになるのでしょう。