衣食住に「便」を足す
私たちが生まれてから死ぬまで、二人三脚をするようにいつも一緒に在るもの、生きるために欠かせないもの、生きているからこそ存在するものとは何でしょう。
それはウンコです。
私たちが生きるためには「衣食住」が必要だとよく言われます。この本では、そこにもう一つ、「便」を加えてみようと思います。そうすると、どんな世界が見えてくるのでしょうか。当たり前すぎて見えなかったものが見え、考えてもみなかったことの中に、思いがけない発見があるはずです。
それにしてもなぜ、わざわざウンコを取り上げて、未来や社会、環境、そして生きることを考えようとしているのか。勇気を持ってこの本を手に取ってくれたあなたでさえ、今はまだ、そんな疑問を抱いていることでしょう。その疑問に答えるために、まずは私がウンコについて考えるようになったワケについて、お話してみようと思います。
早速ですが、質問です。
あなたはトイレやウンコの世界が好きですか?
私はトイレやウンコの世界がキライでした。
失敗したらどうしよう、汚かったらどうしよう、笑われたらどうしよう。「どうしよう……」のオンパレードで、学校でも、祖父母の家でも、ハイキング先でも、トイレの前で足がすくむ子どもだったのです。だからもちろん、トイレやウンコについての話をするなんて、トンデモナイと思っていました。
ところが今は、トイレやウンコの話を堂々としています。本も書きました。大学で教員をしているので、講義でも話します。ウンコのTシャツを着て教壇に上がると学生たちが大喜びするので、私は張り切ってしまいます。なかなか売っていないので、ウンコイヤリングも作りました。話をしてほしいと呼ばれると、講演会でも対談でも、小学生の放課後教室でも、どこへでも出かけて行きます。子ども向けのウンコ絵本も作りました。そして今は、この本を通して、あなたに向かって話しかけています。
この変わりようはいったいどうしたというのでしょう。二〇二〇年に『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか―人糞地理学ことはじめ』(ちくま新書)という本を出版してみると、読者の方々から、「そもそも、どうしてウンコの本を書こうと思ったのですか?」と聞かれることが多くなりました。とある対談で、「何か自分が変わる転換点があったのではないですか?」と尋ねられて、そういえば、と思い出したことがあります。
清濁入り混じる世界の魅力
トイレやウンコを怖がっていた子どもの頃の私は潔癖が過ぎるほどで、とにかく手を洗わなくてはいられない、というような時期を過ごしていたことがありました。気がつけばそれが考え方にも影響するようになって、ものごとを、良いこと・悪いこと、白か・黒か、優か・劣か、清潔か・不潔かと、二つの評価のうち、どちらか一方に区別するようになってしまったのです。
息苦しかったですね。
なぜって、世の中は白か黒かに分けられるほど、そんなに単純ではありませんし、人間自体も良い面もあれば、悪い面も抱えて生きているからです。また、自分では「悪い」と思っていたことが、ほかの人やほかの国、ほかの時代では「良い」ものに反転することも少なくありません。その逆もまた然りです。
大人になるにつれて色々な経験をして、複雑だけど面白い、世の中や人間のことが少しずつわかってきました。だから、頑なになっていた自分の考え方や思い込みを変えてみたいと思いました。大学生になって一人暮らしをして、あえて知らない土地へたくさん出掛けるようになったのは、「汚い」と「きれい」では割り切れない、清濁入り混じる混沌とした世界の中に、自分の身を投じてみようと思ったからです。
その中で一番忘れられない出来事は、大学の教室でたまたま隣に座った友達に誘われて、夏休みに沖縄青年の家が主催する「沖縄無人島一週間キャンプ」に参加したことです。電気、ガス、水道がない、もちろんトイレもない場所で過ごす夏の日々。砂浜に作った手作りの即席トイレには屋根がありませんでした。夜はトイレの上に満天の星が輝きます。よそよそしくて怖いものだと思っていたトイレやウンコが、この時ほど自分のものとして、そして大きな自然の確かな一部として感じられたことはありません。これが私の人生を一八〇度変えてしまうターニングポイントになりました。
第一に、ちょっとしたことでくよくよしたり、小さなことにこだわらなくなりました。そして第二にトイレやウンコは、「キライなモノ」から「面白いモノ」に反転しました。そして、その頃から、「生きる」ということをもっと正面から、そして自分が知らない世界や時代に生きる人たちの価値観や文化に出会いながら研究してみたいと思うようになったのです。
Life の研究―混沌の面白さ
私はこれまで「ライフヒストリー(人びとの人生の歴史)」、「胃袋(食べること)」、そして「ウンコ(排泄すること)」というちょっと変わった切り口から地域や歴史を理解しようとする研究を進めてきました。一見するとバラバラに見える、これらの研究テーマにはいったいどんな共通点があるのでしょうか。
あらためて考えてみたところ、それは「Life」という概念でつながっている、という結論にたどり着きました。
Life は多義的な言葉で、日本語では「暮らし」、「日常」、「人生」、「いのち」、「生きること」などを意味します。私の研究テーマは、なぜかいつもこのいずれかに関わっているのです。俯瞰的に見れば、トイレやウンコを問い直すことはまさに、生きることに欠かせないもの、つまり「Life」を議論しようとしていることに通じている、というわけなのです。
ところで、沖縄の満天の星が輝くトイレで私が感じたことは、きわめて個人的な経験だと思っていたのですが、先日、似たような経験をした女性に、彼女の文章を通じて出会うことができました。インドやバングラデシュでフィールドワークをしている研究者から、「湯澤さんが感じたことはこういうことだね」というメッセージと一緒に送られてきた、ある女子学生が書いたフィールドワークの日記を紹介しましょう。
三月三一日。まだ薄暗く、月がぼやっと見える夜明けからインドの生活が始まった。同じベッドで一緒に寝ているジジから「ダッディー、ダッディー」と言われながら体を揺すられて、起こされた。眠い目をこすりながらベッドから起きあがり、ミナ(六人兄弟の一番末の子)から水が入ったロタ(真銀製の小瓶)を受け取り、それを持って野原に出かけた。暗くて誰が居るのか分からないうちに好きなところへ散らばってしゃがみ、用便をたすのだ。月を見ながら大自然の中でゆっくりと……。すると次第に心が大っぴろげになってゆく。誰も他人の事などかまっていない。自分だけの世界に浸るのだった。用がすむと、ロタから左手に水を汲み、それで洗ってから家に戻った。洗い場でロタを灰で洗い、次いで手足も洗い、最後にパニ(水)ですすいでけがれを落とした。これでインド式のトイレが終わるのだ。
インドの夜明けのゆったりした風景が目に浮かぶようです。人間は大いなる自然の中に生きているという実感は、私の経験と重なります。
野外排泄によって人生が一八〇度変わったなどと言うと、変わり者と思われるかもしれません。というのも、今、世界では「野外排泄をゼロに」しなければならない、という目標が掲げられているからです。しかし、世界には様々な環境や文化があり、実際の人びとの暮らしはそうした多様性に彩られています。トイレの仕組みや用便の仕方も暮らしの一部なので、いろいろなトイレ、いろいろな用便の方法があります。ですから、誤解を恐れずに言えば、全世界のトイレやウンコとの向き合い方を同じ方向に強制的に整えていくことは、生きることそのものを画一化していくように思えて、私は一抹の不安を覚えずにはいられません。
そこで、この本では、「良い・悪い」、「清潔・不潔」などの対立する評価では説明しきれない、複雑で雑多、混沌としつつも多様で面白い、そんなトイレとウンコの世界を探訪しつつ、あらためて私たちの生きる世界について考えてみたいと思います。
その方法として、現在を知るために歴史を遡ったり、理系と文系の考え方を融合してみたり、最先端の技術とその担い手に会いに行ってみたり、日本だけでなく海外にも目を向けてみたり、一番身近なトイレとウンコにあらゆる方向から光を当てていくことにしましょう。
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