ちくま新書

生きるうえで大切な意外なもの?

作物の肥料? 伝染病の元? 信仰の対象? 悪臭無き今、ウンコの歴史は忘却されてしまっている。その知られざる歴史を明らかにした『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』。プロローグを公開します。

 生きるうえで一番大切なものは何だろう。
 そう問われて、「食べること」と答える人はいても、「ウンコをすること」と答える人は少ない。しかし、『ウンコ・シッコの介護学』の著者、三好春樹が「今日、どう食べるのか、ということの中に自己実現はあるのです。今日、どう排便するかの中に自己実現があるのです」と言っているように、ウンコをすることは、生きとし生けるものにとって、食べることと等しく、生きるうえで欠かすことができない、一番大切なものにほかならない。生まれたばかりの赤ちゃんの世話をしている人や、介護や病院の現場にいる人、そして何らかの理由でウンコをすることがままならない状況にある人は、それを日々実感しているのではないだろうか。
 逆に、普段その「ままならなさ」を実感することが少ない人にとっては、自分自身、あるいは「生きること」と「ウンコ」を結びつけて考えること自体が思いがけないことで、奇異に感じられるかもしれない。朝のトイレで一瞥されることもなく水に流されていくのだとすれば、それは一番「身近」なものであるにもかかわらず、「身近」だということをすっかり忘れてしまうくらい、遠い存在にもなりうる。
 齢七〇代の私の知人は、いまだ自宅を和式トイレから洋式トイレに改修するのには抵抗
があると言う。「だって、確認しづらいじゃない、自分の体調を」というのがその理由であると聞いて驚いた。しかし、考えてみれば、文字通り「水に流す」水洗トイレによって、ウンコと私たちの距離は離れ、さらに、和式から洋式トイレになることで、私たちは日常生活のなかでウンコと「向き合う」ということが格段に少なくなった。そうしようと思えば、構造上、向き合わなくてもよくなったともいえる。
 その一方で、なぜかウンコは、子どもたちにはいつの時代でも絶大な人気がある。たとえば近年まれにみる学習教材の大ベストセラーとなったのは『うんこドリル』である。「繰り返し学習」が多い子どもたちではあるが、集中力を維持するのはなかなか難しい。そこで、集中力を切らさず、かつ楽しく笑いながら夢中になって学習できる魔法の言葉として「ウンコ」を使ったこのドリルを、けしからんと憤るというよりも、「やっぱり子どもは好きだから」、「なぜ今までこのアイディアに気がつかなかったんだろう」と納得したのは、おそらく私だけではないだろう。子どもの本でこちらもベストセラーとなっている『おしりたんてい』にも、もちろん「ウンコ」らしきキャラクターは登場する。
 子どもにとって、ウンコは一番初めに出会う、一番身近な「自分」であり、「他者」である。きっと、その「身近さ」とはうらはらの「得体の知れなさ」が、子どもを「ウンコ」に惹きつけてやまないのではないかと考えたりする。
 子どもたちの自由帳をのぞいてみると、いつの時代もウンコは人気のモチーフであることがわかる。自由帳のあちこちに、ユーモラスに登場するウンコの数々から、子どもたちとウンコの親密さを垣間見ることができる。私の息子もその例にもれず、もちろんウンコの絵をたくさん描いていた。
 そして、私の好きなイラストレーター寄藤文平は、その著書『ウンココロ』の中で、こんな風に言っている。
 
ウンコは子供時代のヒーローでした。トイレ、机、グラウンド、壁、白く曇った冬のガ
ラス窓。あらゆるところにウンコを描き入れたものです。絵を描く楽しみを教えてくれたのもウンコでした。

 しかし、時代とともにウンコは徐々にその「身近さ」を失い、それゆえに「得体の知れなさ」が大きくなり、子どもに限らず多くの大人にとっても「見たくない」モノ、「見えない」モノ、「見知らぬ世界」のモノという不確かさを持つようになった。ほぼ毎日出会っているにもかかわらず、である。
 その結果、今ではそれは、「自分」というよりも「他者」であり、触れたくない「汚物」であると認識されることが多くなった。そして、「汚物」と名づけられた瞬間に、私たちはウンコについて深く考えることをやめてしまってはいないだろうか。
 歴史研究をしていると、冒頭に掲げた徳冨蘆花の文章のように、かつてウンコと人間は、土を介した「いのち」をめぐる環の中で、複雑で割り切れない、それでいて豊かな関係を結んでいたということを実感することがしばしばある。スティグマ(汚名)によって、退けられる存在になる以前のウンコの世界である。
 だから、こんな風に言えるかもしれない。ウンコは汚物に生まれるのではない、汚物になるのだ、と。そして現在、もはやウンコは汚物とさえ意識される間もなく一瞬で水に流され、次の瞬間には目の前から見えなくなり、その存在はまるで無かったかのように、忘れさられてしまう。
 では、ウンコがそのような状況に至ったのは、具体的にはいったいどのようなプロセスだったのだろうか。そして、私たちはそのプロセスの中で、ウンコに対する認識を、生きることの意味を、世界への理解を、どのように変化させてきたのだろうか。
 
 ウンコはどこから来て、どこへ行くのか。
 
 本書ではその歴史をひもときながら、「自分」であり「他者」でもあるウンコに向き合い、「身近さ」と「得体の知れなさ」が織りなす、ウンコと私たちの関係世界を考えてみたい。

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