愛のある批評

「丸サ進行」と反復・分割の生 (3)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
丸サ進行は、まだ絶対いける。

4.「ウェルメイド」性からの脱却へ向けて
 ずっと真夜中でもいいのに。の「丸サ進行」の実践は、防波堤の変奏にその眼目を置くものであるように思う。この防波堤を乗り越えることが、「丸サ進行」曲の言わば共通課題ではなかろうか。しかし「ずとまよ」の場合、その表現の比重が置かれているところの、自己理解の遅延並びに他者との衝突の回避とあいまって、防波堤の克服も遅延されたままとなる。「丸サ進行」の特性を最も理解しているのは彼らだと思う。「あいつら全員同窓会」でストリングスを導入しているのは、さりげなく革新的だ。より生っぽい器楽的音色と機械的なコード進行とを調停させる力量は、「丸サ進行」楽曲群において際立っている。だがその「ウェルメイド」性をいなす能力が、かえって枷となっているようにも感じられる。
 そして、「丸サ進行」が与えた課題は、表現の手数が多いとは言えないような、そうしたボーカロイド作品によってしばしば乗り越えられていっている。
 ツミキfeat.可不の「フォニイ」は文句の付けようのない、形式的によく書けた曲である。転調も5度圏と半音上げに収めてあるので、全体としてまとまりがあって聞きやすい。しかし「ウェルメイド」性に留まっているわけではない。「丸サ進行」特有の展開の無さを逆手にとって、サビが突如到来するような設えになっているように聞こえるところが、この作品の優れた点だ。しかもそれは、「丸サ進行」に対する裏切りなのだ。Aメロがイ短調、Bメロがホ短調ときて、サビに入るとコードの切り替わる長さが倍になって、今度はニ短調の「丸サ進行」だと思って聞いていると、「夜の手に」「絆されて」でメロディのリズムがヘミオラ的に処理されて一瞬三拍子になるところで、ここのコード進行が「丸サ進行」ではなかったことに気が付く。ここで同時に、この部分がサビだったことにも気が付くのである。この曲が提示した方法は、サビとは「丸サ進行」の壊れである、というものだ。これはほんのささやかながら、システムの自壊であり、合成音声ソフトに自ずから抒情させることへの成功の瞬間なのである。

「丸サ進行」が技術的に乗り越えられている「フォニイ」に対し、「ヴァンパイア」並びにDECO*27が手掛ける一連の「丸サ進行」楽曲は、まったく別の裏切り方が聞こえてくる。「アニマル」「乙女解剖」「ヴァンパイア」を聞いてみてほしい。この原稿で筆者が一生懸命説明しようとしたことが、ほとんど役に立っていないことがよくわかると思う。もはや「丸サ進行」の特性や、良し悪しなどとは関係なく、別のゲームをやっているのではないのかとさえ思える。

「ヴァンパイア」の歌詞は内容的にはシンプルだ。メンヘラの女の子の描写に徹底している。ヴァンパイアの吸血のごとく、愛情を吸い尽くす話だと思う。歯止めの利かなさが「まだ絶対いけるよ」という歌詞で端的にまとめられている。「悪い子だね」の「悪い」という単語があまりはっきりと発音できていないのはボーカロイドの特性ならではであろうし、チャーミングかつスリリングなところである。歌い出しの「丸サ進行」の変形のさせかたは少し興味深い。最初ベース音が省いてあるのでそれほどコード進行の存在感がない。「「もう無理もう無理」なんて」のところですでにVIの和音の鳴る長さが広げられていて、単純なループになっていない。
「ずとまよ」は「答えは別にある」とうたったが(この歌詞がある「勘ぐれい」は「丸サ進行」曲ではないが)、別の答えは「ヴァンパイア」にある、「まだ絶対いけるよ」だろう。

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