昨日、なに読んだ?

File76.ツイッターをやめたくなったとき背中を押してくれる本
ビョンチョル・ハン著、横山陸訳『疲労社会』、テオドール・W・アドルノ著、ゲルト・カーデルバッハ編、原千史、小田智敏、柿木伸之訳『自律への教育 : 講演およびヘルムート・ベッカーとの対話 : 一九五九~一九六九年』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。「椎名林檎における母性の問題」ですばるクリティーク賞を受賞した批評家の西村紗知さんにご執筆いただきました。

 今日、ツイッターの世界が描き出そうとするのは、あらゆる物事の良し悪し、正・不正の判断において、権威勾配を前提しない場合などありえないという現実である。実生活での物事、他者、公共に対する不信を糧に生きているがためにツイッターの世界へコミットしているような人間にとっては特に、ツイッター上の諸々を仮想空間上の出来事なのだからいくらか幻影じみていると思ってみたところで、権威勾配のこの大衆化・全面化は棄却しようがないほどの脅威を誇る。ちょっとした諍いや労働や政治に対する闘争が絶えず可視化されているため、その中に混ざるささやかな日常を謳歌する内容のツイートが、権威勾配に無頓着で不届きなものに見えてくるほどだ。
 これからは「何が言われているか」ということ自体にはますます信を置けなくなるだろう。「誰が言ったか」の方が大事であるし、それよりも「誰が誰に言ったか」が最も重要であり続けるはずだ。
 加えて、ツイッターの世界がもたらした身体感覚において、判断力は脊髄反射に矮小化されてしまった。良し悪しの判断なら、「何が言われているか」「誰が言ったか」「誰が誰に言ったか」の3つの段階・位相に応じてなされるものであろうが、これら3つの間の往来があまりに速すぎて、何をもって正しいとするかという正しさの基準が宙吊りにされてしまっている。そもそもだいぶ以前から正しさは多数決にすり替わってしまっていたのかもしれないが、正しさが宙吊りに至る速さは、もはやスピード勝負といった具合で目にも止まらない。はじめから、正しさ自体が転覆されるべきものと誤認されているのではないか、というほどである。
 ツイッター的身体感覚の内部で、正しさという概念は今日において最も、転覆されるべきものという属性においてのみ捉えられることになって久しい、あの権威という概念に接近しているのかもしれない。あるいはまた、正しさとは転覆の危険に晒されない親密圏のことそのものの謂いになってしまったのだろうか。
 思うに、人間は、個人として、主体的に何かに信を置けるようでないと生きていけないのではないか。権威も親密圏も、それ自体では積極的に信を置く機会を個人に与えるものではないだろう。その人間自身が正しさの基準をもつようにするためには、権威と親密圏両方を行き来しつつ経験することが必要なのではないか。権威と親密圏とが衝突することがあっても、その衝突が脊髄反射的な身体感覚のもとで処理されるため正しさの基準の精査に至らない、そうしたツイッターという環境にあまり長く居ては、何かに信を置く機会を人々は逸し続けるのではないだろうか。

 正しさの危機は生きづらさにほかならないが、権威勾配に沿って悪しきものを撃とうとする者は誰であっても、この者は同時に人々の正しさを危険に晒してもいるのであるから、生きづらさについて語ったところで説得力がない。生きづらさを感じる者が批判的に振舞う知識人を真っ先に攻撃したくなるのはその辺りの事情によるだろう。いずれにせよこの攻撃もまた、権威勾配に沿った行動である。
 ポジティブに考えれば、こうした地獄めいた連鎖を断ち切ることにこそ、よりよく生きるための方向性がある。その方向性とは、例えば、脊髄反射的な身体感覚の帰結について、あるいは正しさと混同されている権威について考えることだ。 

 脊髄反射的な身体感覚の帰結については、ビョンチョル・ハン『疲労社会』(花伝社)がヒントを与えてくれるかもしれない。
 本書では、まず手始めに、内と外、友と敵という区別を前提とする免疫学的なパラダイムが時代遅れになったと診断が下されている(pp.11-13)。この診断を下した上でハンが描いている図式は、大まかに言うと、規律社会から能力社会へ移行した現在においては、人々のうちの規範も当為から能為へと移行しており、人々は絶えず何かができる状態を保持せねばならなくなっている、というもの。ハンの見立てによると、そうした状況下で人々は、ハイパー・アクティビティ(過剰な活動)の常態化ゆえ、自己搾取に陥り、バーン・アウト(燃え尽き症)に至って何もできなくなる。そしてハンは、ハイパー・アクティビティからバーン・アウトへ、というコースに乗らないための、無為の重要性を説き、本当に大切な「疲労」の在り方を模索する。
 本稿との関連性でいうと「肯定性の過剰は、刺激の過剰、情報の過剰、衝動の過剰としても現れる。こうした過剰によって、私たちの注意の構造と注意の経済(ルビ:アテンション・エコノミー)は根本的に変化し、知覚は断片化し散漫となる」(p.35)という記述から始まる「深い退屈」という章、続く「活動的な生」「見ることの教育学」という章には、脊髄反射的な身体感覚の帰結とその脱却へ向けた方途が描かれているように筆者には思える。

 権威との向き合い方、親密圏に潜む危険性については、テオドール・W・アドルノ『自律への教育』(原千史他訳、中央公論新社)の内容が示唆的に映るだろう。本書には、「アウシュヴィッツを二度と繰り返さない」という問題意識に貫かれた、4つのラジオ放送での対談と4つの講演が収録されている。例えば、引用が長くなってしまうが、「アウシュヴィッツ以後の教育」にある次のような記述は訴えるところが多い。

「もう一度そうした悲惨な事態になるのを望まない善良な人々は、しばしば絆という言葉を引き合いに出します。人々がもはや何ら絆をもっていなかったということが、起こったことの原因だというのです。事実、サディズム的で権威主義的な惨事を生み出す条件の一つであった権威の喪失は、そのことと関係しています。健全な常識人にとっては、力を込めて「そんなことをしてはいけない」と言うことで、サディズム的で破壊的なことをやめさせる絆に訴えるのは、もっともなことです。にもかかわらず私は、絆を引き合いに出し、さらにはこの世の中も人間も、よりすばらしく見えるように再び絆を結ぶべきだと要求することが、本気で役に立つというのは幻想だと思います。[…]絆を多少なりとも進んで受け入れる人々は、良心に反する命令の遂行を永続的に強制されたような状態に置かれることになります。アウシュヴィッツの原理に逆らう唯一本当の力とは、カントの言葉を使わせていただきますと、自律でありましょう。それは反省し、自分で決定し、人に同調しない力のことです」(pp.129-130)。

 それぞれの本の詳細の確認は読者に委ねるとするが、ここで筆者は試しにいくつか批判的に補足してみようと思う。
 『疲労社会』では、免疫学的なパラダイムが時代遅れになったと言われているが、ツイッターの世界では、権威勾配の全面化という現実を鑑みるに、免疫学的な思考がなおも幅を利かせていると言えよう。免疫学的な思考から一人一人銘々閉じた自己搾取へ、ときれいに移行しなかったのが今の現実だ。免疫学的な思考は無効になるどころか、その内と外、友と敵の規模が、ミクロになっただけなのかもしれない。「ウイルスの時代も過ぎ去った」(p.11)とするハンの診断(ちなみに『疲労社会』の原著は2010年であることに留意してもらいたい)が取りこぼした点は、免疫学的な思考と自己搾取とが併存しうるということだ。ハンはあらゆる否定性が無くなったと診断してもいるが(同時刊行の翻訳『透明社会』も参照してもらいたい)、皮肉なことに、ハンが批判的に検討する内と外というパラダイムこそまさに否定性のかたちをとり残存していると言えるのかもしれない。新型コロナウイルスの世界的流行を通じて明るみに出た、人々の諸々の醜態がそれの証左となっているように筆者には思える。
 『自律への教育』には全体として、教育現場への実践的な提言が散見される。その中には、メディアリテラシー教育の重要性が含まれており、それはメディアのコンテンツに「けちをつける」ことを人々に可能にする教育である(pp.204-206)。今日ツイッターでメディアのうつすあれやこれやに「けちをつける」ことに慣れてしまった我々は、型通りとなってしまった自分たちの行いに、今一度反省を加える必要があるだろう。そうしたときに、本書の最後に収録された対談「自律への教育」で言われている、「自律的である」から「自律的になる」ことへの一歩を踏み出すことになるのではないか(pp.202-203)。

 最後に、本稿に欠落している重要な視点について触れておこう。SNS全般はそもそも仕事の獲得や社交や承認欲求のためのツールであるという視点だ。
 このあたりについては、そもそも筆者が仕事のためにツイッターを活用しておらず、友人も少ないので、あまり深くは考えなかった。
 なんにしても、本稿を最後まで読んだ読者は、本稿の面倒くさい記述に呆れたりしながら、それならツイッターをやめるのが一番手っ取り早いと判断するのかもしれない。それは筆者が最も期待するところである。

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