愛のある批評

「丸サ進行」と反復・分割の生 (2)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
丸サ進行のウェルメイド性にもっとも切実に向き合う”ずっと真夜中でいいのに。”が表現する、徹底した逡巡。

2.問題は「ウェルメイド」性に対する解像度と、具体的にアーティストそれぞれがこれにどう向き合っているかである
 そういうわけで、ひとまず「丸サ進行」の基本的な用例と性格とを押さえておいた。そして、相対性理論の実践により「丸サ進行」の隆盛は準備されていたと、例としては不足しているが一応言ったこととする。こうして前段階があったのだから、その帰結としての作品に、息苦しいとか展開がないなどと文句ばっかり言っていてもしょうがないのである。
 他の人の意見を基にもう少し具体的に考えていこうと思う。長年日本の音楽産業を見守ってきた、佐々木敦の時代診断もまた若干ブルーである。佐々木は、2010年代後半以降のポップミュージックの動向の特徴として、「センス」型から「学」型への移行という見立てを提示している。

日本のポップミュージックの新しい担い手たちが、そうした言うなれば「ちゃんとした音楽理論」に支えられていることは、基本的に良いことなのですが、同時にある種の問題を感じてしまうこともあります。つまり、ものすごく良くできている。しかし踏み外したところがない。破綻がない代わりに、過剰や異様な部分もない。聴き手の期待や予想をはみ出してくる部分がないわけです。そうした在り方の対極に、一部のシンガーソングライターや、アイドルソングの作曲に多いものとして、ものすごく無理な転調をしたり、どう考えても繋がらないだろうというパーツ同士を無理やりつなぎ合わせたりするケースもあります。ですが、全体的には「こういうふうに始まったらこういうふうな展開にならざるを得ないよね」という、危な気がなく、ウェルメイドな楽曲が増えているという印象はぬぐえません。(佐々木敦『増補・決定版 ニッポンの音楽』扶桑社、2023年、314-315頁。)

 補足すると、上記の「日本のポップミュージックの新しい担い手たちが、そうした言うなれば「ちゃんとした音楽理論」に支えられている」という文で念頭に置かれている事態は、King Gnuのメンバーや、額田大志、網守将平といった芸大出身者の活躍である。あとは川谷絵音の名前も挙がっている。反対にこれの対極として上げられているのが、相対性理論である。曰く「相対性理論は、アマチュアリズムの突然変異みたいな存在でした」(同書、316頁)。
 個人的には、川谷絵音の作曲にはかなり変わったところがあるとは思うのだが、「ちゃんとした音楽理論」の範疇にあるのは同意する。「ちゃんとした音楽理論」によって過剰にも異様にもなれる可能性が開かれていくのではないか、とは思うがこれは筆者の立場である。また、相対性理論の作品には、この原稿の少し前に「丸サ進行」の実践の先例としての位置付けを与えた。過剰さや異様さがあるものでも、その後続へ理論を提供する役割を担う場合があるのではないか、とも思うが、そもそも相対性理論の作品にある「抜け感」「奇形性」(同箇所)については筆者も同意するし、多くの人もそうだろう。こうした相対性理論の表現の謎は、後続へと引き継がれたかと言うと、そうではなかっただろう。
 筆者は上記の佐々木の主張に基本的には同調し、この主張からもう少し発展させようと試みている。上記の引用で「丸サ進行」楽曲が念頭に置かれているかどうかはわからない。だが、「丸サ進行」楽曲は「危な気がなく、ウェルメイドな楽曲」に類するものだろう。聴取の面では、「この曲も丸サ進行か、最近多いな」と思えるほどに、量的にも質的にも「ウェルメイド」、つまりは紋切り型のものに聞こえる。作曲の方法としてもこれはまた、決まったコード進行を単純に反復させるという基本的な用法において「ウェルメイド」である。他の曲との比較でも、一つの曲の中の位置関係の上でも、「丸サ進行」という素材自体は代替可能なものに聞こえる。

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