ちくま文庫

ネガティヴ・ケイパビリティによる社会運動史

レベッカ・ソルニット『暗闇のなかの希望』(井上利男・東辻賢治郎訳、ちくま文庫)を2023年4月に刊行しました。ソルニット『説教したがる男たち』の訳者でもある米文学者のハーン小路恭子さんが書評を書いてくださいました。ぜひご覧ください(PR誌「ちくま」5月号より)。

レベッカ・ソルニットの『暗闇のなかの希望』が出版されたのは二〇〇四年のことだ。ソルニット自身が述べるように、それは前年に始まったイラク戦争への応答として、絶望的な状況において希望を持ちつづけることを主題に書かれたものだった。今回の文庫化は、その後数章を加えて二〇一六年に出版された増補版の翻訳に当たる。

 この本の内容をざっくりまとめるとすれば、「ネガティヴ・ケイパビリティによる社会運動史」と言ったところだろうか。近年日本でも注目されているネガティヴ・ケイパビリティとは、もとはイギリスの詩人ジョン・キーツの用いた用語で、ものごとの答えを性急に求めるのではなく、不可知や不確かさのもとにとどまることのできる能力を指す。ヴァージニア・ウルフの「未来は暗闇に包まれている。概して、未来は暗闇であることが一番いいのではないかと考える」という言葉とともに、ネガティヴ・ケイパビリティは『暗闇のなかの希望』の基調をなす概念であり、またソルニットという書き手の根本的な姿勢を示すものでもある。この作品以外でもさまざまなところで、ソルニットはキーツやウルフの言葉をくり返し引用しているのだが、根底にあるのはやはり、単なる楽観主義ではなく、困難な状況のなかであえて希望を抱く、その複雑な試みなのだと思う。

『暗闇のなかの希望』のネガティヴ・ケイパビリティは、みずから環境アクティヴィストでもあるソルニットが体験し、試行錯誤を重ねてきた社会運動のあり方を統べる思考の方法である。運動、アクティヴィズムと聞いて人びとが思い浮かべるのは、その華々しい成果であったり、誰の目にもそれとわかる大きな革命的偉業を成し遂げる運動家の姿であったりする。だが実際の運動は無数の無名の人間たちによって担われ、雑事や困難、仲間割れや徒労感に彩られたものであって、運動に参加する大抵の人びとは、ある日ある場所に集まり歩いたり抵抗したりすることの意味をそれほどはっきりと知ることなしに、日々不確かな暗闇のなかを進んでいる。それでもあとになって振り返ってみたとき、大きな変化を実現させたのは、そのようにして暗闇のなかにとどまる力、自分たちがしていることの意味が見えない不安に耐えて、世界をよりよい場所にするために昨日行ったひとつのことを今日もまた行う、そうした弛まぬ実践のなかにある。この本のなかでもそのことをもっともよく示すエピソードは、女性たちの先駆的な反戦運動グループ、〈平和のための女性ストライキ〉(WSP)が行ったある抗議運動についてのものだ(四五-四六頁)。メンバーのひとりは、雨のなかに立って抗議することをとても無駄で馬鹿馬鹿しく感じていたという。だが小児科医ベンジャミン・スポックはその様子を見て心を打たれ、これが彼にとって反核運動に真剣に取り組む契機になった。運動の渦中にある者たちには、自分たちのしていることが将来的にどんな重要性を持ちうるのかは必ずしも見えていない。だがその不可知性こそが、思ってもみなかった方向に運動を拡大し、未来に影響を与える可能性に満ちたものなのだ。

『暗闇のなかの希望』は、ソルニットがほかの作品でもその後追求していくことになる思想のエッセンスが詰まった本だ。キーツやウルフの暗闇は『説教したがる男たち』(二〇一四年)でもフェミニズムの文脈で再登場するものだし、混乱や利己主義に支配されると思われがちな災害や危機的状況において、人びとがコモングラウンドのもとに連帯する直接行動は、もちろん彼女が『災害ユートピア』(二〇〇九年)において突き詰めて考えることになる主題だ。『オーウェルの薔薇』(二〇二一年)に出てきたジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』(一九三八年)の印象的なエピソード──義勇軍の兵士が反乱軍に、たっぷりバターを塗ったおいしそうなトーストをダシにして寝返りを持ちかけ、その豊かな喚起力のもとに対立をなし崩しにせんとする瞬間を描いている――は、ユーモアと希望でもって分断を切り崩す芸術的表現の具体例として、『暗闇~』でも存在感を放っている。ネット上のコミュニケーションを中心に冷笑主義が跋扈し、あらゆる陣営が分断されきっているように思える現在だからこそ、ソルニットが見せてくれる、暗闇のなかにあえてとどまる姿勢と、そこから逆説的に立ち現われる希望は、大きな意味を持つことだろう。