新刊の訳書『モンテーニュからモンテーニュへ』は、レヴィ=ストロースの没後に発見された講演記録2篇を収めている。当初は未定稿だったテクストのうち、ひとつは故人が民族学を志してまもない第2次大戦前夜、弱冠28歳の講演録であり、ひとつは冷戦終結後、彼が齢83に達した時点での講演録である。長きにわたるレヴィ=ストロースの知の歩みに照らせば、これもおよそ極小といえるふたつの定点にすぎない。じっさい彼の大半の著作の刊行は、その間に始まりそして終わっている。半世紀あまりの時をへだてた言述の大胆な並置が本書の読み手にひらく問いは、レヴィ=ストロースとモンテーニュというふたつの傑出した知の、400年の時をまたぐ思想上の連関でもあるだろう。
テクストの背後を幾重にも走る歴史の脈絡を補うために、監訳者はやや長めの付論を本書に寄せた。ことに世界戦争の20世紀を、宗教戦争の16世紀と引き比べる過程で、図らずもレヴィ=ストロースの私的生にまつわる最もセンシティヴな、出自と信仰の問いに向きあわざるをえなくなった。そして付論の元稿を書きあげた翌月から、かの地ではハマスの奇襲攻撃とイスラエルのガザ侵攻がはじまった。
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両親も自分も無信仰者であることを折にふれ語ってきたレヴィ=ストロースは、1980年代半ばにイスラエルを初訪問した際も、「自分の根源と肉体的な接触を持つことは恐るべき経験である」はずなのに、祖先がパレスティナを去った往古と、アルザスに定着した18世紀初頭とを分かつ2000年近い時の断絶をまえに、旅先では「一瞬たりとも、自分の根源に触れたという印象を持たなかった」と述懐している。人間に関する事柄などしょせん真の問題たりえず、もっぱら人間そのものを問いとして凝視すること――そしてそのためには人間を人間だけの枠組でとらえないこと――が真の課題になるものと、16世紀のモンテーニュは考えていた。20世紀の構造主義者も同様の見識を具えていたからこそ、人間だけの枠組である「社会」が近代の個人に強いる歴史主体の同一性には、もっとも親密な次元での同一化でさえ断固として抗っていたことが、この小さな挿話からもうかがえよう。
完全な理解は不可能であれ他者の思考にわずかでも近づくために、あらかじめ自己への同化をかたくなに拒もうとする彼の姿勢は、『エセー』の著者と同じく、当の〈わたし〉をひとつの謎として問う意志へと繋がれていた。それ自体は空無の場でしかない〈わたし〉の裡には、やがて野生の思考を生きる他者たちの声のその向こうから、人間以外の自然をふくめた「世界」の声が響きわたるだろう。若き日の彼が社会主義活動家時代の終わりにたどりついた「自然の問題」は、そうして「社会」から広義の「文化」へと転轍をとげながら、もうひとつの「革命的意志」として継続してもいくだろう。
とはいえ、思考のうちでひとたび後退させたはずの「社会」が、現に1492年の「発見」よりこのかた世界に惹き起こした頽廃ぶりから、ひとはむろん免責されるべくもない。〈わたし〉と自己、そして〈わたし〉でないべつのだれかとの隔たりに向きあうレヴィ=ストロース独自の倫理学は、同一性の否定を貫いたまま、そのとき新たな革命的意志と、たしかに交叉したように思われる。最晩年にモンテーニュへの明白な回帰をとげたというレヴィ=ストロースは、同一性を拒絶するという点ではクラストルとも響きあいながら、革命と倫理の連関をひらくモンテーニュの訪れを、早くから得ていたのではないか。
本書の第一講演がなされる直前、パリ帰省中の彼がブラジル調査の蒐集品を展示したヴィルデンシュタイン画廊は、くしくも市内ラ・ボエシ通りに面していた。16世紀との超現実的な接触から、そのとき彼につかのま去来したかもしれない感興を推し量るすべは、もはやいっさい失われているとしても。
クロード・レヴィ=ストロースが若き日と晩年に行った2つの講演録が発見され、このほどちくま学芸文庫より翻訳刊行されました。この2つの講演をつなぐのは、16世紀の思想家モンテーニュ。その存在はレヴィ=ストロースの思考に何を響かせていたのでしょうか。監訳者によるご寄稿を掲載いたします。