空疎な議論
2023年11月に上梓した『安楽死が合法の国で起こっていること』(ちくま新書)の「序章」で、京都ALS嘱託殺人事件への世論の反応に触れて、以下のように書いた。
私には、相模原事件(障害者施設殺傷事件)から後、衝撃的な出来事が起こるたびに、人々がその衝撃に心を揺さぶられるまま無防備に「安楽死」という言葉に惹きつけられていくように見えた。
その事件の主犯格、大久保愉一被告に対し3月5日に京都地裁で判決が言い渡された。その前後からまたも同じことが繰り返されている、と私には見える。「安楽死」を云々する言葉がネットに溢れているが、この事件ではいったい何が行われたのか、裁判で明らかになった数々の事実に関心を向ける人は少ない。「安楽死」という言葉だけに脊髄反射的に反応し、「日本でも安楽死を!」という声がかまびすしいが、判決の解説記事を書く法律の専門家の中にすら「尊厳死」と「安楽死」の区別がついていない人がいることに驚かされる。「何かと生きづらい世の中だから」「経済的に困窮して辛いから」「あらかじめ何歳で死なせてもらえると分かっていたら楽だから」などの理由によるナイーブな「安楽死」賛成論も多数混じっている。そんな「安楽死」など地球上のどこにも存在しないというのに。
この事件から私たちが議論すべきは、本当にそんな空疎な「安楽死合法化の是非」論なのだろうか。事件の実相を置き去りにしたまま、不用意に「安楽死」の議論へと世論が雪崩れ込んでいくのは、危険なことではないのか。
障害者蔑視に満ちた父親殺害計画
判決で言い渡されたのは懲役18年の刑である。一連の事件の主犯とみられる大久保被告に問われた罪状は三つ。まず、共犯者とされる山本直樹被告とその母親と共謀して、精神障害があり家族に介護負担がかかっていた山本被告の父親を殺害した罪。次にスイスでの医師幇助自殺を希望する女性の依頼で英文の診断書を偽造した公文書偽造。そして京都でALSを患う女性からの嘱託を受け、130万円の報酬を受け取って殺害した嘱託殺人の3件である。「京都ALS嘱託殺人事件」と称されてきたが、実際には3つの事件が起こっている。判決はそのすべてで大久保被告を有罪とした。懲役刑18年のうち多くの年数は山本被告の父親殺害に対する刑罰とみられる。一連の事件の核心をなすのは、第一の殺人事件なのである。
今から10年以上も前の2011年3月、長野県の病院に入院していた父親を山本被告と母親が「転院先が見つかった」と虚偽の説明で退院させ、大久保被告と合流した後、あらかじめ1か月だけ借りておいたアパートに連れていき殺害。偽造した死亡診断書で荼毘に付し、遺骨は山本被告がアフリカに持って行って埋めた。計画立案プロセスで交わされた3人のメールには、「いいかげん、あぼーんしないかね。生きてる価値ないだろ」(「あぼーん」とは死亡の意)「おさらばして貰う」「化け物よ。。(ママ)サラバ!」など、被害者への憎しみと蔑視が剥き出しになっている。悪意に満ち、医師としての知識と経験を駆使して周到に用意された、この殺人事件こそが一連の出来事の本質だろう。
また彼らは高齢者を社会や医療制度のいわばお荷物とみなし、『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』という電子書籍(現在は購入できない)を出していたことも明らかになっている。その内容紹介には、
「今すぐ死んでほしい」といわれる老人を、証拠を残さず、共犯者もいらず、スコップや大掛かりな設備もなしに消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ。
とある。報道によると、共犯の山本直樹名義で出版された同書には、大久保被告が執筆した『医療に紛れて殺害マニュアル』が取り入れられており、大久保被告が執筆したか、大久保被告と山本被告の共著だとされる。裁判で罪に問われた3つの出来事を縫い繋ぐ糸は、この高齢者や障害者に対するゆがんだ考えと医師にあるまじき倫理感の欠落だといってよい。
が、判決後に、こうした事件の本質に目を向ける人は少ない。
二つのめくらまし
一連の事件をめぐる世間の反応には、二つの不幸な「めくらまし」が生じてしまったと思う。まず、最初に発覚したのが京都の事件だったこと。そして加害者が医師だったこと。この二つが「めくらまし」となり、事件の一報に大きな衝撃を受けた人々の中に「ALSを患う女性の死にたいというSNSでの発信を受け、捨て置けずに行動を起こして、安楽死させてあげた医師がいた」という印象が刷り込まれてしまった。
メディアに流れる女性の言葉は痛切で、多くの人が「無理もない」「あの人のようになったら自分だって死にたい」と共感と同情を寄せた。まもなく、大久保被告(または山本被告との共著)の電子書籍『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』出版の事実などから、偏った考えの持ち主だったことを示す情報も流れたが、医師は多くの人にとって善意と使命感をイメージさせる専門職だ。事件発覚以前から世の中に「安楽死」の合法化を望む声とともに、安楽死について漠然と「望ましいこと」「良いこと」というイメージが広がりつつあったことも影響しただろう。第一報が流れた当初の衝撃が大きかっただけに、最初の印象がぬぐいがたく残り続けることとなった。
しかし、考えてみてほしい。山本被告の父親殺害事件は10年以上ものあいだ誰にも気づかれていなかった。京都の事件の捜査過程で、二人の被告のメールの中から当時の殺害計画をめぐるやりとりが出てきて発覚した。ということは、もし京都の事件が発覚しなかったら、第一の殺人事件は完全犯罪で終わっていたのである。
一方、京都の事件でも、大久保被告は当初、女性の死が気づかれるのは翌朝であり、主治医は自然死と判断するので犯行が露見することはないと読んでいた。その読みが外れて、女性の呼吸がすぐに止まったために発覚したが、もし京都の事件が大久保被告の読み通りの展開をたどっていたら、今なお11年の殺人事件はもちろん19年の京都の嘱託殺人事件も完全犯罪のまま埋もれていた可能性がある。
獄中の山本被告と面会したジャーナリストが、大久保被告が山本被告にメールで送った『医療に紛れて殺害マニュアル』の内容を把握して書いた記事(3月7日 AERA.com)によると、そのマニュアルでは、検査によって必ず発覚するから「病院での毒殺はやめとけ」と説かれていた。そして、以下のように書かれていたという。
狙い目が在宅医療。(中略)患者を死なせようと思うなら、ここにつきる。
医師が処方する薬を使えば自然死に見せて葬り去ることができる。(中略)今まで訪問診療に来る医者はそのまま死亡診断書を書いて一見落着(ママ)。火葬されてしまえば何ら証拠も残らない。
マニュアルは2013年ごろから2019年11月にかけて山本被告のもとに送られてきたという。殺人を完全犯罪とした成功体験を持ち、その後10年以上も何食わぬ顔で医師として働いていた大久保被告が、京都でALS患者の女性を殺害するまでに考えていたのは、在宅患者を「医療に紛れて殺害」する綿密な方法論だったのである。仮に京都の事件が彼の読み通りに終わっていたら、在宅で療養する患者の中から次の被害者が出ていた可能性もあるのではないか。それが「嘱託殺人」と「殺人」のいずれになったのかは想像するしかない。
もしこの事件を安楽死に関連づけて考えるとすれば、世界の一部の国や地域で制度化された安楽死があくまでも医療従事者の性善説に基づいていることと、そこに潜むリスクについて改めて意識させる事件と捉えるべきだろう。
「社会が苦しい人を死なせてあげる制度を持つ」とはどういうことか
裁判で大久保被告は「女性の苦しみを見かねて、捕まることを覚悟でやった」と主張し、弁護士は個人の尊厳と自己決定の尊重を定めた憲法13条を根拠に無罪を主張した。いずれも、上記の事実関係に照らせば詭弁であり、論点外しであることが明らかだ。判決も自己決定権、幸福追求権、個人の尊厳はいずれも個人の生存が前提であるとして、弁護士の主張を退けた。憲法13条からただちに「自らの命を絶つために他者の援助を求める権利」などが導き出されるものではないとの判断は、「自殺」と「安楽死」との違いをくっきりさせて妥当だと思う。
安楽死は身も蓋もない言い方をすれば「医療従事者に殺してもらうこと」であり、自分で死ぬ自殺とは決定的に違う。それが合法化され制度化されるということは「社会が医療に託して殺してあげる」ことであり、問題は単に「死にたい人は死なせてあげてもよいか」という問いの範疇におさまらない。「社会が苦しい人を死なせてあげる制度を持つ」とはどういうことか。「医療従事者が『殺す』行為を認められる」「医療が社会や政治から『殺す』ことを託される」とはどういうことか。それが社会のありよう、医療のありようにまで及ぼす影響については慎重に考えられなければならない。
また、殺すことを社会から担わされる医療従事者の負担の問題も考える必要がある。つい最近、動物の安楽死を行う頻度の高い獣医はそれほどでもない獣医に比べて希死念慮をもつ確率が高いという調査結果が報告されている。かつて日本で狂牛病が流行した際にも、連日多くの牛を殺処分にする獣医の精神的な負担が問題になった。人を死なせるのはもっと負担の大きな行為となるはずだ。しかも医療従事者は、患者を救うための教育とトレーニングを受け、命を救うために働いてきた人たちなのだ。
安楽死を患者の「死ぬ権利」だと主張する声が広がってきているが、仮にそれが「権利」だとするなら、その「権利」を保障する責はだれが負うのか。法制化する以上は国家が負うのか。国家が医療に託して「殺してあげる」のか。それなら医療従事者は「殺してあげる義務」を負うのか――。「安楽死」を合法化した国々では、医療従事者が安楽死に関与しない自由を保障する「良心の権利」をめぐる議論が続いている。
事件の判決を受けてまたぞろ巷に噴出する「安楽死」をめぐる「議論」は、「死にたいほど苦しいという人がいるなら死なせてあげてもよいか」という「自殺」視点の問題設定の範疇に留まり、社会や医療に与える影響という大きな視点を欠いている。判決それ自体にも、こうした社会や医療に与える影響まで広く捉える視点が見当たらないことは気がかりだ。
「4要件」とする報道の危うさ
最も懸念されるのは、この度の判決によって医療従事者による嘱託殺人が「罪に問われない場合の4要件」が示されたかのように報道されていることだ。
実際には明確に「要件」や「基準」を示したというよりも、弁護側の主張の正当性を検討する過程で「仮にそういう事例があり得るとしても……などが最低限必要」と、弁護側の主張を否定する結論に至る考え方の筋道を示したに過ぎないのではないか。また「など」が多用され「少なくとも最低限必要」など、曖昧な表現に留まってもいる。
これまで日本では安楽死が免責されうるための要件として、1991年の東海大安楽死事件で、1995年に横浜地裁が示した以下の4要件が参照されてきた。
①患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。
②患者は死が避けられず、その死期が迫っている。
③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するための方法を尽くし、他に代替えする手段がない。
④生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある。
大久保被告に対する3月5日の判決以降、メディアがそれぞれに判決文を要約しながら、あたかも医療従事者による嘱託殺人(=積極的安楽死)が罪に問われないための「4要件」が示されたかのように報道していることには大きな懸念がある。例えば、毎日新聞の記事(3月6日)では今回の判決が示した「難病患者らの依頼を受けて医療従事者が殺害に及んだ場合、例外的に許容される四つの要件」として、挙げられているのは以下の4点だ。
〇苦痛の除去・緩和のために他の手段がないことを慎重に判断する
〇患者に説明を尽くし、意思を確認する
〇苦痛の少ない医学的な方法を用いる
〇一連の過程を記録する
これらが「最低限必要だと述べた」と書かれてはいるが、他のメディアによる記事もおおむねこのような要約をしている。それらが新たな「4要件」として独り歩きすれば、1995年の4要件から「耐え難い激しい肉体的苦痛」「死が避けられず、その死期が迫っている」の2点が外されたとの誤った解釈が生まれかねない。
この事件では大久保被告については、女性の主治医ではなくALSの専門医でもないこと、診察すらしていないこと、金目的でやっていることなどが指摘されている。つまり、大久保被告には、患者からの嘱託を受けて殺害行為に及んだ「医療従事者」とみなされる資格が否定されている。ゆがんだ考えにとりつかれた人が医療の知識を「悪用・濫用」した――言わば医療が「凶器」として用いられた――殺人事件を機に、東海大安楽死事件で横浜地裁が示した4要件から「耐えがたい激しい身体的苦痛」と「死期が差し迫っていること」との限定が外されたかのような解釈がまかり通っていくことは絶対にあってはならない。
海外で安楽死を合法化した国や地域の中には、今なお死が6か月から12か月以内に迫っている終末期の人に対象を限定しているところも少なくないが、じわじわと終末期ではない人へと対象者が拡大されていく傾向が見られ、「すべり坂」として懸念されている。また一部の国では「耐え難い苦痛」を身体的苦痛に限定せず、精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も許容されており、数々の問題が指摘されて難しい議論となっている。その他にも、合法化された安楽死の周辺にはさまざまな倫理問題が潜んでいる。
本質を見据えて考えるべき問いとは
冒頭で書いたように、日本で「安楽死を合法に」と望む人たちの中には「尊厳死」と混同している人や、非現実的なイメージだけの「安楽死」を語る人たちが多数含まれて、まるで日本で語られる「安楽死」とは「望めば誰でもいつでも死なせてもらえる」ことのようだ。そんな空疎な「安楽死」待望論が世間に溢れる中でこの判決が誤って解釈されるなら、日本の世論は「すべり坂」どころか「崖」を転落しかねない。報道機関にはくれぐれも慎重な報道をお願いしたい。「安楽死」という言葉に踊り安直な議論を煽るのではなく、事件の全容をきちんと捉え、事実関係を丁寧に伝えることによって、起こったことの本質を炙り出す報道をしてほしい。
相模原障害者殺傷事件では、加害者が支援職であったことが世の中に大きな衝撃を与えた。大久保被告のメールに散見されるのは、あの事件を引き起こした植松聖の考え方そのものだ。それなのに、一連の事件の加害者が医師であったことに人々はなぜ衝撃を受けないのだろう。私たちは、もっと衝撃を受けるべきではないか。
なぜ医師がこのようなゆがんだ考えをもつに至ったのか――。高齢者や障害者を遇する、この社会のありよう、医療のありようの中に、その芽がありはしないか――。私たちがこの事件の本質を見据えるなら、考えなければならない問いは、そちらだと思う。