遠い地平、低い視点

【第22回】紙に戻せばいいのに

PR誌「ちくま」より橋本治さんの連載を掲載します。第22回「紙に戻せばいいのに」はアメリカ大統領選挙についてです。

 アメリカ大統領選挙のことがちょっと気になる。共和党のドナルド・トランプや民主党のバーニー・サンダースのような、既成のアメリカ型政治家像から離れた人が大統領候補として票を集めている。といっても、バーニー・サンダースはれっきとした上院議員だが。言いたい放題主義のトランプや「社会主義者」のサンダースに人気が集まって来ると、最有力と見られていた民主党のヒラリー・クリントンが、「手垢のついた既成政治家の典型」のように思えてしまう。事実、サンダースの猛烈な追い上げを喰らっているクリントンは、「そうじゃないのよ! 私はみんなのこと考えているのよ!」的なアピールが丸見えになって、どんどん「嘘臭い既成政治家」に近づいてしまっているようにも見える。
 今度の大統領選挙ですごいのは、「既成の政治家」を代表する有力候補が、女のヒラリー・クリントンただ一人ということですね。いくらでもいるはずの「男の普通の政治家」の出番がなくなっているところが、「異常」と言ってもいいような今度の大統領選挙ですね。
 ヒラリー・クリントンが大統領になるということは、アメリカに「どうして今まで通りなんだ!」という不満の声が高まることだし、トランプでもサンダースでもどっちでもいいけど、どちらかが大統領になったら、議会と衝突してアメリカ政治が遅滞するということでもある。既成の政治家像にNOを言うアメリカ人は、「それでもいい」と思っているわけだから、この先の世界がどうなるのかは、まったく分からない。少なくとも事態は、「初の女性大統領を――」というところをもう素っ飛ばしている。アメリカで女のトップは珍しいのかもしれないが、もう女の大統領や首相は、よその国で珍しくない。ここまで女の大統領を生み出さないアメリカの男性原理主義社会が、事態を硬直させたと考えられなくもないけれど、そういう話は大統領が決まってからでいい。
 それで、私が今したいのは、別の話です。外からのサイバー攻撃がすごくて、官公庁のデータがごっそり持って行かれてしまうという話を聞きまして、私は思いました。「紙に戻しちゃえばいいのに」と。
 サイバー攻撃って言ったって、勝手に他人のコンピュータに侵入してデータを持ってっちゃうんだから、泥棒ですよ。盗んで行ったくせに「盗んでいません」とでも言うように、勝手にコピーを取って現物をそのままにしとくんだから、ただの泥棒より仕末が悪い。自分の部屋から一歩も出ないで、平気で盗みをしてしまうというのは、泥棒としてのモラル、人としてのモラルに反すると思う。「出来るんだからいいじゃん」という理屈を野放しにしたら、この世から「犯罪を成立させる要件」がなくなってしまう。「だからやめろ!」と言ったって、やる方はやめないでしょうね。だから、そういうことが出来なくなるような方法を考えればいい。
「セキュリティチェックを厳重にすればいい」って方向ではないですね。データをすべて、昔みたいに紙に書けばいい。紙に書かれた膨大な量のデータを持って行くのは、自分の部屋にいたままでは出来ない。大量の紙の山をどうやって運び出すか、具体的に考えなければならない。持ち出して、逃げて、それで見つからないようにするという、盗む側には三つの関門が用意される。それをクリアしてこその盗っ人でしょう。だから、盗まれて困るデータは、全部紙に戻せばいい。
 ネットなんかにつなぐから盗まれてしまう。「さァ、持って行きやすいでしょう。盗んでください」と言わぬばかりの設定を作っておいて、その上でセキュリティチェックを厳重にするというのは、矛盾している。最大のセキュリティチェックは、「持って行かれるところに置かない」だと思いますけどね。
 コンピュータによる効率アップというのは、実のところ泥棒にとっても効率アップで、悪気はなくてもうっかりしているだけでやたらの数のものを流出させてしまうことになる。紙に戻せばいいんですよ。そうして効率を悪くして、もう一度「しばらくお待ちください、ちょっと面倒なので」という状態を復活させればいい。効率が悪いということは、時間がかかるということで、それはつまり「考える時間が増える」になる。
携帯電話が普及してから、「あ、それから――」と、何度も電話を繰り返して来る人間が増えて来た。便利で即決だと、よく考えないで結論を下して、すぐに「あ、そうじゃなくて」の引っくり返しを生んでしまう。なにをそんなに急ぐんだ? 「うっかりすると上海市場で株価が下がって大損するから、のんびりしてはいられない」というのは、ほんの一握りの人達で、「ほんの一握りの人達によって社会が動かされるのはへんだ」というところで、アメリカの大統領選挙も様変わりしちゃってる時代ですからね。

 

この連載をまとめた『思いつきで世界は進む ――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ちくま新書)を2019年2月7日に刊行致します。

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