遠い地平、低い視点

【第31回】自己承認欲求と平等地獄

PR誌「ちくま」1月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 この半年くらい、気がつくと「自己承認欲求」という言葉をよく聞いていた。どうでもいい写真の類をSNSに上げるのは自己承認欲求だ、とか。分かりそうなものだが、よく考えると分からない。どうしてそれが「下らない自己主張」ではなくて、「自己承認欲求」なんだ? と考えて、「自己主張ならその受け手はなくともいいが、自己承認欲求だと受け手はいるな」と気がついた。相手がいなくても勝手に出来るのが自己主張だが、自分を認めてくれる相手を必要とするのが自己承認欲求で、そう思うと「なんでそんな図々しいこと考えるんだ?」と思う。
 世の中って、そんなに人のことを認めてなんかくれないよ。「あ、俺のこと認めてくれる人なんかいないんだ」と気がついたのは、もう三十年以上前のことだけど、気がついて、「認められようとられまいと、自分なりの人生を構築してくしかないな」と思って、「人生ってそんなもんだな」と思った。取っかかりがない、風の吹く広野を一人行くとか。そう思ってしまうと、自己承認欲求というのは、不幸な子供が求めるもので、大人が求めるようなものではないと思うのだが、今や大人は、みんな「不幸な子供」なんだろうか?
 そうかもしれない。「自分はもう一人前の大人なんだ」という明確な自覚を持てなかったら、それはもう「不幸な子供」になってしまうだろう。
 自己承認欲求というのは、今や当たり前のように広がっているらしい。ということは、「自分はその存在を誰かから認められていいはずだ」という願望を持つ人が当たり前に存在しているということで、しかもその「認められていいはずだ」で提出するものが、どうってことのないものだったりする。つまるところ、誰もが皆、「私は認められてしかるべきだ」と思う根拠を勝手に持っているということで、人間の平等はそのような形で達成されちゃったらしい。
 ということになると、ここからが難問で、みんなが「私も認められたい」状況になってしまった時、誰がその承認欲求を満たしてくれるんだろうか? 芥川龍之介の昔なら、その下が地獄の底とつながっている極楽の蓮池のふちをぶらぶらとお歩きになるお釈迦様もいて、「あの者をこのままにしておくのは可哀想だから」と思し召されて蜘蛛の糸を下ろされたりもしようけれど、みんなが平等になっちゃうと、蓮池越しに下を覗き込むお釈迦様のような特別な人もいなくなってしまう。
 他人を認められるだけの特別な立場を持つ人がいなくなっているにもかかわらず、「誰かに、誰にでも、認められたい」という欲求を持ってしまったら、その時から「誰でも自由に希望を口に出来る平等」は、「自己承認欲求のさざ波が立つ平等の血の池地獄」に変わってしまうが、どうするんだろう? と考えた。
 うっすらとそんなことを考えていたのが、ドナルド・トランプがアメリカの次期大統領に決まって、「もう世界情勢は混乱しちゃうぞ」という世の声が渦巻く中、大統領スキャンダルで騒々しい韓国のその先の北朝鮮のことをふっと頭に浮かべたら、「ああ、そりゃ自己承認欲求だ」と不思議にピンと来た。
 北朝鮮がなぜ核実験やミサイル発射実験を繰り返すのかと言えば、大方の言うところは「アメリカと平和条約を結びたいから」である。つまり、「こっち向いてくれ! 向いてくれないならこっちにも考えがあるぞ!」と言って暴力的なデモンストレーションを繰り返しているわけで、つまりは、アメリカに対する自己承認欲求である。金正日の時はそれほど露骨でもなかったが、金正恩になってしまうと、もう明らかに「他人に認めてもらいたくてジタバタする不幸な子供」である。
 オバマ大統領は、「仲よくしたいんなら、そんなバカげたことはやめろ」として、金正恩を相手にしてはいないが、しかしオバマのアメリカは、まだ「世界の警察」で、北朝鮮を「認める」ということが可能な立場に立っている。でも、ドナルド・トランプは、「もう世界の警察なんかやって無駄な金を使ってられない」という立場である。だとしたら、「北朝鮮が〝こっちを認めてくれ〟と言っている? そんなもん俺と関係ないじゃないか」になってしまう。
 北朝鮮がアメリカに対して「自己承認欲求」を強く打ち出したとしても、「そんなこと知らん」とアメリカに言われてしまえば、「自己承認欲求」そのものが成り立たなくなってしまう。だだをこねる息子と、それを無視するこわいお父さんの関係と一緒だ。
「これからどうするんだろう?」ということもあるが、よく考えれば、自己承認欲求というのは、平和がもたらした贅沢な産物だ。
 

PR誌「ちくま」1月号
 
この連載をまとめた『思いつきで世界は進む ――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ちくま新書)を2019年2月7日に刊行致します。

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