人はアンドロイドになるために

7. 時を流す(3)

     *

 このころ父が、そのすぐあと母が亡くなった。

 

 生きるとは、他者の無数の死を通過していくことである。

 姉は、両親から「いい子」として育てられた過去をもつ(私はすぐにドロップアウトした)。その強力な規範意識をつくった、抑圧装置がなくなったのだ。

 私には、三〇をすぎても娘がやることにいちいちケチをつけて干渉しようとしてくる親がいなくなって重力から解き放たれたような感覚があった。

 姉のなかでは、私よりもずっと大きなタガが外れた感じがした。

 まず見た目が大きく、ハデに変わった。それから、球体のものをひたすら集めてオフィスにも配置するようになった。

 私たちは次に、宗教家や聖人、神話上の聖獣などのアンドロイドをつくりはじめた。

 キリスト像やマリア像、天使像、仏像、ギリシア神話の神々など、さまざまな宗教や神話からうみだされた偶像をアンドロイド化した。動き、話せるようにした。

 私たちがそんなことをする前、二一世紀前半から、タイの介護用ロボットは手を合わせるような仏教的なしぐさをするように作られていた。ロボットに儀礼的・儀式的・宗教的なふるまいをさせることは、人間社会に溶け込ませる手段として自然に行われてきた。

 しかし私は、アンドロイドの役割や意味は、人間の手伝いをする、コミュニケーションの相手になる、といったことに留まるはずがないと思っていた。人間らしさと非人間らしさを兼ね備えたロボットだからこそ、超越的な何かを感じさせられるものになる。

 まずつくったのは、遠隔操作型アンドロイドである。誰でもキリスト像や仏像の「中に入る」こと、なりきることができる。

 次いで自律型のキリスト像やマリア像のアンドロイドをつくりはじめた。ほかにも、世界中の宗教的な聖人のアンドロイドを、次々と。『三国志』に登場する関羽や、日本の平将門など、祀られており、過去に偶像化された対象であれば、歴史上の人物たちもアンドロイド化を進めた。

 クレームの数は膨大になり、止むことがなかったが、それはどうでもよかった。

 むしろ、こういうプロジェクトをやると決めたがために、宗教的な理由で優秀なスタッフが離脱していったことのほうが、つらかった。

 私はこのことを通じていったい何がわかるのか、何を感じるのかを早く知りたかったし、限界まで推しすすめたかった。もっと先へ行きたい――そのためにはたくさんの学問的知見、現場の技術が必要だった。

 ロボット芸術は、ひとりではつくれない。チームが、組織力がものを言う。

 そのためには厚い信仰の持ち主も必要だったのに、少なからず抜けていってしまった。イライラした。こんなおもしろいミステリーはないのに。

 たとえばキリストのアンドロイドを「らしく」つくるにはどうしたらいいのか。キリストを、リアリティをもって造形するとは、どういう行為なのか。

 十二分に探求のしがいがあった。キリストの写真など、もちろん残っていない。正確な記録もない。あるのは弟子たちが残した文字だけだ。ただ、宗教画には無数に描かれ、彫刻にもされてきた。

 では宗教美術史を参照すればつくれるのか。

 キリストはどこまでアンドロイドで表現できるのか。

 絵や彫刻と違って、アンドロイドは動き、語る。だとすれば、感情があるように見えたほうがいいのか、そうでないほうがいいのか。

「神の子」に見えるためには、表情豊かなほうがいいのか、能面のようなほうがいいのか。

 何かされたときに痛みを感じたほうがいいのか、超然としていたほうがいいのか。

 どんな声のトーンがふさわしいのか。

 信仰者、研究者を新たに協力を仰いでも、それらは一義には定まらなかった。試行錯誤の連続だったし、何をもって完成としていいのか、誰にもわからなかった。

 また、アンドロイドは頭部を固定するさい、ボルトを頭蓋に打ち込む。ふつうの人間のアンドロイドであっても、その作業は痛々しく見える。宗教的な偉人の頭にその作業を行うことは、信仰のない人間でも抵抗があった。おまけにアンドロイドの皮膚は壊れやすく、剥げやすい。聖人の皮膚がめくれている姿は、冒涜的な印象すらある。

 しかしそれはなんなのか。

 物体でしかないのに、そうでない感じがする。

 モノのようでモノでなく、人のようで人でない。神ではないが、聖性を感じないとも言えない。制作に携わった人間はみな、戸惑っていた。

 私たちの試行錯誤は人類が偶像に対して求めて来たもの、聖性とはどんなものかについての仮説を検証し、また新たな仮説を提出した。

「荘厳さ」は何によってもたらされているのか。

 人間は、何を「聖なるもの」として認識するのか。

 それらを工学的、芸術的に再現可能なものにしていくことに、私は関心があった。「神聖さ」は、技術でつくれる。実体的に「聖性」があるかどうかはともかく、「そう感じる」ようにする手法はある。

 私たちは自らの手で歴史的な仏像やキリスト像を再現し、アンドロイドにしてみた。宗教美術のもつ魅力と技術に改めて気づき、感銘を受けた。

 アメリカ中西部にある潰れた郊外型ショッピングモールの跡地を買い切ってつくられた私たちのスタジオは、中国の兵馬俑のようになっていった。

 三交代制、不眠不休で数百体のアンドロイドが次々とつくられ、立ち並ぶ異様な空間には、熱気と興奮と勘違いに溢れていた。客観的に見れば、頭のおかしい連中の集まりだ。買ってくれるアテもないのに、莫大な資金が溶けていく。最初のプロジェクトとは比べ物にならないくらいのお金がなくなった。気持ちいいくらいに。

 

 そうこうしていると、バチカンに呼び出された。

 ホンダは人間型ロボット「アシモ」をつくっていいかどうか、バチカンにおうかがいを立てに行っている。

 ロボット研究者の石黒浩も「ジェミノイド」と言われる人間酷似型アンドロイドを最初に制作したときには、世界最古の大学であるボローニャ大学で発表し、現地の研究者たちから「どんどんやりたまえ」とお墨付きを得てから、研究を推しすすめてきた。

 また、石黒のロボットを用いて劇作家の平田オリザが作・演出した世界初のアンドロイド演劇は、オーストリアはリンツの大聖堂で、大司教の承認のもと行われている。「なぜやる意味があるのか」という大司教の問いに対し、彼らは「われわれは『人とは何か』ということをアンドロイド演劇を通して考えようとしている。『アンドロイドに魂があるのか』を問う演劇を教会で上演することで、観客は生命の尊さについて考えてくれるはずだ。人間とは何かを映し出す鏡であるアンドロイドを教会の中に入れて演じさせることは、人間に対する気づきを与えてくれる」と、現地の人間を交えて説得をした。「脚本を事前にすべてチェックさせること、アドリブはいっさいなしにすること」を条件に、大司教は聖マリア教会のもっとも大きなステンドグラスから光が降り注ぐ空間にアンドロイドを立ち入れることを許可をした。

 私たちも、制作意図を説明しなければならなかった。

 

「あなたがたは、不気味な自律型キリストアンドロイドなどを信仰の対象として考えているのか? 偶像崇拝の対象として」

「それは私たちが決めることではなく、受け手の捉え方次第でしょう。人類はこれまでも、偽物だと鑑定されたキリストの聖骸布をありがたがったりしてきたわけですから、われわれがつくった阿弥陀如来像を拝む人間が出てきてもふしぎではありません」

 

 私は持論を展開した。

 芸術は、科学がいくら発達しても残る。絵画の美しさが、写真が登場したあとも残ったように。しかし一方で、写真や映画は、科学技術が可能にした芸術の形態である。アンドロイドも。アンドロイド・アートをつくる人間は、ダ・ヴィンチのように科学者であり芸術家であることを模範にする。

 サイエンスやテクノロジーがいくら発達しても消えてなくならないのは、宗教も同じだ。科学技術が可能にするあらたな信仰のかたちもある。そこにはアンドロイドを使ったものもあらわれる。私たちはその可能性を示唆するものをつくりたい。テクノロジーと芸術と宗教の交点をさがしている。

 おおよそそういうことを伝えた。

 キリスト教の総本山は、科学に対して柔軟である。

 ガリレオの宗教裁判のころとは異なり、現代のローマ法皇庁は、おおむね科学を否定しない。イタリアは人間を最初に解剖した土地だ。ヒトクローンの研究を率先して行ったところでもある。

「人間とは何か?」という問いを、カトリックは先端的に探求する。

 彼らは「人とは何か?」を認定する権威でありたいと思っている。

 だからこそ科学を否定せず、しかし科学ではわからない問題に対する心の拠り所を与えることで求心力を保ってきた。したがってロボットが宗教にどのていど関与できるのか、人間との違いとは何かについても、彼らは知りたがっていた。

 私たちの意見に賛同はしなかったが、話を聞いてはくれた。

 明言は避けたが、放置しておいても問題ない、と判断したようだった。うるさいのは外野であり、本丸は鷹揚としている。そういうものらしい。

「やっぱり、思想がある人たちは強いな。何かを本気で信じないと、突き抜けたことはできない」

 姉は帰りの飛行機で窓越しに空を見ながら、何度もそうつぶやいていた。

 

(「時を流す」(第四回)につづく[1月27日更新予定])

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