人はアンドロイドになるために

最終回 時を流す(4)

 私たちがつくっていた、ある聖人アンドロイドが、売却先で改造され、セクサロイドとして利用されていた。

 それを知った宗教原理主義者が、制作者である私と姉を取り違え、襲撃した。

 意識不明となる、瀕死の重傷だった。

 しばらく聖人アンドロイド事業はストップしていたから、油断していたのだ。警備を軽くしたのが、失敗だった。聖人アンドロイド計画は私が始めたもので、姉は責任者ではない。

 狙われるべきは、本当は私。

 なのに。

 

 昏睡状態は続き、回復は絶望視された。

 姉は、もしものときは私に「娘と、団体を託す」という手紙をのこしていた。

 悲しみが困惑を勝っていて、すぐには何も考えられなかった。

 姉の娘、香澄のことはむろん、面倒を見ることを即断した。

  問題は、例の団体のほうである。

 対外的にも双子である私が代表になることに違和感はない、見た目も同じですからと、どういうわけか幹部たちは口を揃えて言う。

 まるでこの日がいつか来ることを知らされていたかのように。世界各地の支部に置いてある姉のジェミノイドに入って、教えを説いてほしい、と言う。

 双子の姉をかたどったアンドロイドに妹の私が入り、姉であるかのように振る舞う。

 入っていないときでさえ、見た目が姉と同じ私は、姉の分身のようにここでは扱われる。その想像は、過去にさまざまな聖人のアンドロイドに入ってきたどの感覚とも違う、なんとも言えないものだった。

 ふしぎなことに、団体の人間たちは誰ひとりとして、自分で組織を率いたいとは思っていないようだった。それならいっそ解散したっていいのではないかとすら、一瞬は思った。

 姉は私の代わりに瀕死の状態に陥った。しかし、亡くなったわけではない。

 私が姉の代わりを務める必然性があるだろうか。そんな実務能力が自分にあるとも思えない。

 ただ、姉のつくったものを勝手に壊すわけにもいかない。

 万に一つの確率だが、姉の意識は戻るかもしれない。そのときのために、残しておかなくては。

 それに、すでに団体はかなりの数の人の精神に入り込んでいる。これを崩壊させたときの混乱を考えると、慎重にならざるをえなかった。姉の怪我を悲しんでいるのは、私だけではない。

 姉の考えを知りたい。

 せめてそれを多少なりとも理解してから、誰かに少しずつ権限を移していくことにしよう。

 姉が付けていた日記が見つかった。

 勝手に見るのは気が引けたが、引き継ぎには必要な作業だと割り切って読むことにした。

 マメなものではなかった。

 ただ、娘のことなど、大事な出来事があった節目節目には記述があった。日記を読んでも姉のことがわかったとは、言い切れない。

 だが姉にとって大きかったものが何なのかの、片鱗はわかった。

 姉は私と組む直前、幼少期に好きだったあの作家と偶然、バカンス先のモルジブで出会い、話をしたようだった。

 親の教育もあって、なるべくまともに生きようとしてきた姉は、しかし、どの分野でもトップになる人間は杓子定規ではないことに二〇代後半で気づく。そのころ姉は「自分はしょせん凡人だ」と思ってくすぶっていたようだ――このところの私と、同じように。

 そのときあの作家から「想像だけでなく創造すること。世界を解釈するのではなく変革すること。カラを破れば上に行けると信じること。自分にそれができないなら、誰かにそれを信じ抜かせる装置をつくるしかない」と改めて説かれたのだ。

 いろいろと附に落ちた。

 双子でも、知らないことだらけだね、とさびしくもなった。

 

 その日記には、公刊されていない、姉の宗教論も書いてあった。

 宗教の目的は、つながりを作ることにある。

 血縁やお金に加えた、つながりを作る第三の手段。宗教には「教え」があり、その教えを信じ共有できるかが、つながりに参加できるかどうかの鍵となる。「教え」は、我々の日常の多くの疑問に答えを与える。

 人間の最も人間らしいところのひとつは、抽象的な言葉を皆で共有している点だ。

「心」「感情」「意識」「生死」そして「人間」……これらは時代とともに定義が変わる、曖昧な言葉だ。

 これらは日常的にその存在を感じられる一方、実体は不明だ。その存在に疑いを抱き始めれば、疑問の波は際限なく広がる。

 それに答えを与えるのが、宗教だ。

「教え」が、心を静める。

 そこで大切になるのが、多くの人が同じように信じているという共有感だ。多くの人と同じ考えを持つことで、信じることが容易になる。一人であれば正しいかどうか判断できないことも、大勢が信じていることなら受け入れられる。ここに人間のあやうさがある。

 科学は、多くの人に信じさせる力を持っている。それは科学の持つ客観性や普遍性に基づくものである。

 思想や宗教の場合は、逆に多くの人に信じさせることで、正しいことを作り出す。

 宗教は常に科学に影響を受けている。

 科学によって不明なことが解明されると、それまでの宗教が無条件に信じ込ませてきたことを変更しなければならない。天動説が地動説に変更されたように。

 宗教は、科学で埋め尽くせない不安な部分を埋める。そこでは特別な世界が作られている。

 ただし、近代科学や市民革命以降に発達した民主主義の思想と衝突せずに社会になじませるために、大きな宗教は世俗化していった。

 人々に強い規範意識を植え付ける「教え」としての側面を薄めていき、冠婚葬祭や年中行事のような日常に溶け込んだ「文化」になっていったのだ。

 カソリックが強い地域の人間でさえ、なんとなく日曜日は教会に行き、みんなで歌をうたって帰ってくることが習慣になっているだけで、聖書に何が書かれているのかなど、まともに理解していない者も多い。

 だがキリスト教は、誕生した瞬間にはどうだったか。イエス・キリストはユダヤ教徒や当時の権力者たちから弾圧をうけ、処刑された。初期のキリスト教は、社会にとっての異物だった。

 しかし徐々にその先鋭さをひそめ、教えを丸め、社会と共存できる存在になった。

 だが世俗化が進むと「教え」は形骸化し、冠婚葬祭のときには教会に行く、というような習慣だけが残る。

 するとそのスキマに入りこむように、絶対的な基準や価値を強烈に訴える「小さな宗教」が乱立し、それぞれが特定の志向を持った人間を集める。信者以外には荒唐無稽で偏った考え方に見える団体でさえ、信じる人間はいくらか出てくる。過激、先鋭的、難解、あるいは逆に馬鹿馬鹿しいがために規模はあるていど以上に大きくなりようがない集団が、無数にあらわれる。それが近現代の宗教をめぐる状況だ。

 二〇世紀以降、科学技術があまりに進展した結果、徐々に宗教は科学の影響を受けない時代に入っていった。人々が日常生活で触れる範囲のことは、すべて科学で説明できるようになった。

 いまでは多くの専門的な科学者たちは、人々が直接的に実感できないような領域、たとえば量子力学などを扱っている。そうした高度な科学的な理論や用語をもってして語っても、それを知らない一般人からは理解されない。

 だから宗教家たちは、日常生活レベルの科学は受け入れたうえで、その先のことは好きに言ってもいい、という状態にある。科学者たちの言葉が理解されない領域、届きにくい場所に、宗教の言葉は染みいっていく。

 人々が理解できないレベルの高度な科学知識は、聞く側にとっては「科学で説明ができない」のと主観的には同じようなものだ。とくに心や意識の問題は主観的現象であり、脳科学をもってしても客観的な説明がつけにくい部分が残っている。人々にとっての常識を超えたものや、精神的な活動の領域について、宗教はわかりやすく説明できる能力を持っている。

 かつては聖書に書かれた地動説と科学が発見した天動説とが矛盾することがあった。今ではノーベル賞を取るような発見でさえ、宗教家が語る言葉の説得力を揺るがすことはない。

 ほとんどの人からすれば、最新科学の動向など知らないし、どうでもよい。自分が理解できる範囲での「真理」がほしいのだ。

 宗教は、科学の影響を受けない時代に入ったのだ。

 二一世紀には、そこにインターネットがツールとして加わった。テクノロジーは人間集団を細かく切り分け、これまで以上に、特定の人間を集まりやすくした。

 宗教に限らず、あらゆる趣味嗜好に応じた小集団が形成された。人々が求めた「自分の意見が通りやすい社会」「自分と同じものを信じる者の集まり」をミニマムに実現した。ネット上ではどんな奇異で極端なひとびとでも、匿名的に居心地のいい場所を作れる。危険な考えを持っている人間どうしでも、簡単に集まれる。

 すると、欧米的な価値基準や高度資本主義経済のシステムのなかで生きづらさを抱え、あるいは貧しいがために不平等感を抱く人間たちは何をしはじめたか。「イスラーム国」のような集団を、ネットを活用してつくるようになった。

 ネットがもたらした情報社会革命は、これまでならアクセス不可能だったデータや映像に簡単に触れられるようにした。富める者のすがたも、貧しい自分たちのすがたも、なぜそうなってしまっているのかというメカニズムまでをも、白日の下にさらした。

「機会均等」「努力すれば報われる」といった近代社会の建前がウソであり、人間は不平等だと明らかにした。そんな状況に不満を抱く層のリーダーは、同じ境遇にある者たちに対して新たな価値基準を示して結集させ、近代社会に対して反旗を翻すようになった。彼らはネット社会だからこそ誕生でき、拡大できたのだ。

 しかしネット社会の次の時代、ロボット社会にふさわしい思想や宗教はいまだ十分なかたちで存在していない。

 ロボットは半現実で半仮想の存在であるがゆえに、これまでとは異なる宗教のありようを作り出すはずなのに。

 ロボットは、物理的に実体として存在しているという意味では現実世界のなかにある。

 だが、人の思想をデータとしてコピーして伝えることもできるという意味では精神的な存在である。その前提として、インターネットやセンサネットワークというある種の仮想世界とつながっている(これが「半現実で半仮想」という意味だ)。

 大半の思想、宗教、政治団体では、指導者が崇拝や尊敬の対象になる。そういうリーダー的な存在がアンドロイド化される日は、たしかにやってきた。

 十字架にはりつけられたキリストを見ればわかるように、人間は偶像に「人間を超えた何か」を見る。

 リアルに存在しているにもかかわらず、純粋な精神的存在(仮想的存在)にも見えるロボットは、宗教と結びつきやすい。狂信的な教えを説く教祖のアンドロイドは、信者に「ここには人間以上の精神的な価値をもった存在がいる」と思わせやすい偶像となった。

 私も自分をかたどったアンドロイドを各支部に置いている。団体主宰者ないしは教祖による複数のアンドロイドの遠隔操作は、妹や私たちが聖人アンドロイドをつくって以降、徐々に増え、今ではあたりまえのものになった。

 人間の汚く、醜い部分を嫌うひとは多い。偶像にはそうした人間のおぞましい部分、見たくない部分がない。ロボットもまた、人間の汚い部分が捨て去られた存在である。ロボットは、人間が憧れる偶像として機能しやすい。人は精神的な意味でも、そして肉体的な意味でも、人間離れした美しいものになりたがる。

 人々が考える「人間らしさ」には、噓をつくとか汚い言葉を使ってしまう、排泄をするといった、美しくないことも含まれている。

 そして人が考える「美しさ」には、汚く醜い部分を排除した非人間的なものが含まれている。つまり人間が理想とする「美しい人間」には、突き詰めればアンドロイドしかなりえない。美しさをより体現できるのは、機械やアンドロイドであって人間ではない。

 宗教と社会の関係には、いくつかのターニングポイントがあった。科学技術と民主主義が発達した近代以前と以後、そしてインターネットが普及する以前と以後で、大きく姿を変えた。今はロボット普及以前と以後の、あいだの時期にある。ロボット以後の世界では、偶像としてのロボットが使われる世の中になる。

 インターネットと宗教が結びついた状況を、ロボットはさらに変える可能性がある。それがどんな世界になるのかは、まだ探求されきっていない。

 神とは、全世界を瞬時に見渡し、あらゆる出来事を瞬時に知ることができる存在である。人類はまだ全世界に瞬時にアクセスすることはできない。

 しかしネットの届く範囲では情報を届けることができる。ネットにつねにつながることができるロボットは、接続され、移動できる場所においてまでは、つねに神の声を聞くことができる。

 あるいは、ネットが届く範囲内には、発信することもできる。ネットが届く範囲を広げ、ロボットが稼働できる範囲を広げることは、神の言葉が届く場所を増やす行為である。

 全世界、全宇宙にまでネットとロボットを広げることができれば、それはほとんど神に等しくなる。

IoG(Internet of God)だ。