ひきこもり支援論

第1回 「当事者不在」を乗り越えるために

 この連載は「ひきこもり」の支援のあり方について、〈聴く〉ということに焦点を当てて、普段とは少し異なる角度から考えようとするものです。ある人の抱えている苦悩や困難を少しでも軽くしたり解決したりするための手助けが「支援」なのだとすれば、当事者の経験や思いを〈聴く〉ことは、言うまでもなく「ひきこもり」の支援においても欠かせません。ただし、〈聴く〉ことは当事者のニーズを的確に汲みとり、効果的に支援していくための手段以上の意味を持っています。当事者の声をきちんと〈聴く〉こと、それ自体が、かれらの生を支えることになるのではないでしょうか。私はそう考えています。

こうした問題意識を念頭において、まずは支援をめぐって現場で何が問題になっているのか、その一端を見ることから始めたいと思います。なお、「ひきこもり」の当事者とは誰なのか、ということについては次回以降に説明します。今回はひとまず、「ひきこもっている本人」くらいの感じで受け取っておいてください。

 

支援者と当事者の間に横たわる溝

 先日、KHJ全国ひきこもり家族会連合会が主催する「ひきこもり つながる・かんがえる対話交流会」に参加してきました。この集会は、当事者、家族、支援者など様々な立場の人たちが場を共有し、語り合うことを通して、多様な生き方が尊重される社会を創造していくきっかけとつながりを生み出すことを目指すものです。その日は80名近くもの人たちが集まり、テーマごとに分かれて話し合いを行ないました。

 私が座ったのは「支援」をテーマにしたテーブルでした。参加者たちは立場の違いにこだわることなく、自分の経験や思いを率直に語り、また相手の話にも熱心に耳を傾けていました。なかでも印象に残っているのは、当事者として参加していた人からの次のような問題提起です。どうして支援というと就労支援ばかりで、もっと広い意味で「どう生きていくのか」に応えようとしないのか。支援者はちゃんと当事者のことを分かっているのか――。「ひきこもり」が社会問題化してから20年近く経ち、支援の輪が大きく広がったものの、いまだに支援者と当事者との間には深い溝がある(少なくとも当事者はそう感じている)ことがうかがえる発言でした。

 また、数年前から大都市圏を中心に、当事者が主体になって企画・運営するイベントや集まりが同時多発的に開かれるようになっています。その背景にも従来の支援に対する不満や不全感があるように見受けられます。2014年11月末に東京で開催された「ひきこもりUX会議」の発起人のひとりから、自分の活動の根底にあるものは「怒り」だという話を聞いたことがあります。「専門家とか支援者とか言われる人たちに、私たちは分析され、語られてきたけれど、やっぱりそれが必ずしも当事者の気持ちとしっくり合っているとは限らない」。だから、自分たちの経験や思いを自分たちの言葉で語ることが必要であり、自分たちにはその力があるのだと、その人は力を込めて語ってくれました。

 2017年2月末に大阪で開催された「若者当事者全国集会」も、同じような問題意識に根ざしているようです。主催者のひとりは集会の趣旨を説明するなかで、従来の支援は「当事者不在」だったと指摘しています。これまでの取り組みは支援者や親、教育関係者が中心になって進めてきたものであり、それは「当事者の周辺に居る様々な立場の関係者がたゆまぬ努力を続けてきたことの一つの『成果』」として認めるべきだ。しかし、「一方では、このような当事者不在の『成果』にのみ根拠を依存する支援・実践は、必ずしも当事者によって求められているもの、必要としているものと同一では無かったことも事実」である、と( NPO法人グローバル・シップスこうべ、ホームページより)。

 

ひきこもり支援における「当事者不在」

このような「当事者不在」への批判は、いまに始まったことではありません。そういう声は2000年代初頭からすでにありました。その当時、「ひきこもり」には犯罪者予備軍というレッテルが貼られ、甘えや怠けに過ぎないという非難が巻き起こっていました。その一方で、精神科医やカウンセラーなどによる著作が数多く出版され、全国各地で支援団体の設立も相次ぎました。当事者発信の先駆けとも言える勝山実は2001年に出版した『ひきこもりカレンダー』のなかで、こうした状況を「当事者不在の大騒ぎ」と皮肉りつつ、読者に「ひきこもりの人の立場、視線に立った本を買って読んでみてください」と呼びかけています。

 かれらは、自分たちの声が無視・軽視されている状況を指して、「当事者不在」と呼んでいるようです。このような状況に対して当事者たちが堂々と異議を申し立て、みずからの手で変えていこうとする機運が、ここ数年の間に急速に高まっています。このうねりは当事者たちの強い思いによって生み出されていることは間違いないと思いますが、加えて、かれらの声に耳を傾けようとする周囲の姿勢が整ってきたことも関係しているのではないでしょうか。

 とはいえ、支援者や親たちは当事者の声をまったく聞こうとしてこなかったわけではありません。むしろ、当事者が何を思い悩んでいるのか知ろうとし、助けになろうと必死になってきました。そこに偽善がなかったかどうか、どれだけ当事者の思いを汲みとれていたのかといったことは別にして、そのことは否定してはいけないと思います。そうだとすれば、問題は単に周囲が当事者の声に耳を貸さないことにあるのではなく、当事者の声がちゃんと聞き届けられていないこと、あるいは自分の声が聞き届けられ、理解されたという実感を当事者たちが持てないこと、ここにこそあるのだと言えます。したがって、「当事者不在」の状況を乗り越えようとする当事者たちの熱意が実を結ぶかどうかは、周囲がかれらの声をどれだけ聞き届けられるかにもかかっていると言えます。

 話を聴いているようでいて、ただ相手の声が聞こえているだけになってしまっていることはありませんか? それがいつも問題含みであるとは限りませんが、やはり支援という文脈では、そうならないように努めることが大事だと思います。たまには自分の聞きかたを振り返ってみることが必要ではないでしょうか。どうすれば相手の声を聞き届けることができるのか。そもそも人の話が分かるとはどういうことなのか。この連載で考えてみたいのは、このような〈聴く〉ことをめぐる問題です。

 

二重の〈語れなさ〉

 ところで、「ひきこもり」が社会的に注目を集めるようになってから、「当事者不在」を乗り越えようとする動きが高まるまでには、15年近くの歳月が経っています。周囲の「聞く耳」が育つのを待たなければならなかったというだけでなく、当事者にとっても自分の経験や思いを確信を持って語れるようになるまでに、それだけの時間が必要だったのかもしれません。詳しくは追々取り上げていきますが、当事者の苦悩は社会参加できないことだけに留まらず、自分がなぜひきこもったのか、自分が何に苦しみ、何を望んでいるのかといったことを、うまく言葉にできないことにもあるようなのです。

いま雄弁に語っている当事者たちも、最初からそうやって語れていたわけではないはずです。自分のなかにある言語化しがたい何かを徹底して見つめ、少しずつ形になっていったものを幸運にも出会えた仲間たちと分かち合い、時間をかけて言葉を耕していったのではないでしょうか。長く続いてきた「当事者不在」の背景には、このような語ることの困難も横たわっていると考えられます。ただし、どれだけ耕された言葉であっても、それを受け取ってくれる相手がいなければ、その言葉は宙に浮き、なかったものになってしまいます。また、どうにか言語化できたとしても、それだけでは語れたことになりません。なぜなら、〈語る〉ことは〈聴く〉こととセットになって初めて成り立つからです。

こうして考えると、「当事者不在」とは〈語る〉と〈聴く〉がうまく噛み合っていない状況として捉えることができます。言語化できないという意味での語れなさ、そして言語化されたものが受け取られないという意味での語れなさ、この二重の意味での〈語れなさ〉を、何とか解きほぐしていけないものでしょうか。

 

支援と暴力

話は少し逸れるようですが、先日、NHKの番組「クローズアップ現代+」で「トラブル続出 ひきこもり“自立支援”ビジネス」という特集が放送されました。高額の費用を不当に請求されたり、監禁されて暴行を受けたりするなど、自立支援を謳う施設によるトラブルが相次いでいるそうです。これまでも支援施設内での暴行・虐待については何度か報じられていますが、すべてが報道されているわけではないと考えると、私が思っている以上に、支援における暴力は日常的なものになってしまっているのかもしれません。

しかし、支援の陰で振るわれる暴力については、繰り返し問題化されてきました。たとえば昨年3月、テレビ朝日の制作した番組が物議を醸しました。その番組は「すねかじられる親の悲痛な叫び! 高齢化する“ひきこもり”問題」というテーマで、ある自立支援団体を取材していました。その団体の代表を務める男性が、引きこもる子どもを持つ親の依頼を受けて自宅を訪問する場面も流れましたが、引きこもっている本人を部屋から無理矢理引きずり出して怒鳴りつける様子は、およそ「支援」という言葉からはかけ離れたものでした。しかも、引きこもっている本人からは撮影の許可を得ていなかったそうです。無許可で取材・放送が行われたこと、相手の尊厳を踏みにじるような言動と振る舞いが当たり前のようになされたこと、このどちらも許されるものではありません。番組が放送されてから約2週間後、精神科医の斎藤環さんの呼びかけで抗議のための記者会見が開かれ、全国各地から駆けつけた当事者たちとともに私も出席しました。

ただ、私自身はこの番組を見て、やや語弊はありますが、懐かしさのようなものを覚えました。そして、それと同時にため息が漏れました。というのも、よく似た内容・構成のテレビ番組を2000年代中ごろに見たことがあったからです。しかし、そこで主役として取り上げられていた女性は、同行取材を行った際(このときもやはり無許可でした)に「支援」した相手から訴えられています。また、これとほぼ同じ時期に、ある支援施設で入所者が監禁されて暴行を加えられた末に死亡するという事件も起きています。こういうことがあったにもかかわらず、10年経ってもまだ同じような番組が制作されること(つまりは一定の視聴率が見込めると判断されたということ)、支援とは呼びがたい強引で乱暴なやり口が見直されておらず、それどころか「頼りがいのある支援者」として紹介されることに対して、怒るのを通り越して、私は正直あきれてしまいました。

なぜ支援の名のもとで暴力が振るわれ続けるのでしょうか。この疑問に答えるのは非常に難しいですが、私はひとつ次のような可能性を考えています。それは、一部の支援者は支援の対象を「自分と同じ人間」とみなしていないのではないか、自分と同じように意思があり、感情があり、そしてまた、人生を背負った存在だとは思っていないのではないか、ということです。これは支援者にのみ言えることではありません。ここでこの問題を深く追求することはできませんし、また感覚的な表現に留まってしまうのですが、目の前にいる人を「『ひきこもり』の当事者」でもなく「支援の対象」でもなく、ただ「自分と同じ人間」として眺められるようになれば、“何か”が変わるような気がしています。そして、相手の声をきちんと〈聴く〉ということは、自分と相手が「同じ人間」だと知るということにつながっているように思うのです。

さらにもう一言だけ書いてしまえば、支援とはどうしても暴力性を孕んでしまうものだと私は考えています。たとえば、どんなに相手の意を汲もうとしても汲みきれるものではなく、したがって、支援する側の押しつけや決めつけを完全に取り除くことはできません。このような支援と暴力との微妙な関係については、この連載の最後で考えてみたいと思っています。

 

どこから〈聴く〉ことは出発するのか

 さて、私はここまで見てきたような状況を高みに立って眺め、その問題点を冷静に分析しているわけではありません。私自身もまた、当事者の声をどれだけ受け止められるか問われているひとりにほかなりません。私は研究者として「ひきこもり」に関わり続けています。「ひきこもり」に関連する様々な集まりに足を運び、自助グループや支援団体に当事者として関わっている人たちにインタビューを行なってきました。そして、かれらの語りに基づいて「ひきこもり」とはどういう経験なのか明らかにするとともに、「ひきこもり」が社会のあり方や個人の生き方にどのような問題を提起しているのか探ることを課題としてきました。

私の研究の中核を成しているのは、当事者の声を〈聴く〉ことです。しかし、かれらの声をきちんと〈聴く〉準備が整うまでには、研究を始めてから数年かかりました。次回はその道のりを振り返ることを通して、どこから〈聴く〉ことは出発するのかということを考えてみたいと思います。