ひきこもり支援論

最終回 信頼に根差した支援を目指して

 前回は、自分の語っていることが相手にどうやっても通じないという三つ目の〈語れなさ〉を、ある当事者へのインタビューをもとに指摘しました。自分の経験や思いをそれなりに言語化することができていて、相手もこちらの話にちゃんと耳を傾けようとしていても――一つ目と二つ目の意味において〈語る〉ことができたとしても――、どうしても話が噛み合わないことがあります。

 もちろん別個の人間である以上、お互いが望むとおりに分かり合うことは不可能です。しかし、三つ目の〈語れなさ〉で難しいのは、聞き手が自分の「あたりまえ」で語り手の言葉を上書きしてしまう場合です。そして、聞き手がそれをほとんど意識しておらず、かつ本人は相手を否定するつもりがなく、むしろ理解を示そうとしている場合は、さらに厄介です。たとえば、悩みごとを打ち明けているとき、自分の実感とはそぐわないところで相手に「分かる、分かる!」と大きく頷かれて、それ以上は話を続けられなくなってしまったことがないでしょうか。話が通じないなら通じないままにしておくほうが、まだコミュニケーションの回路は開かれていると言えるでしょう。

 さて、これまで何度も繰り返してきたとおり、私は「ひきこもり」に関わり始めて数年の間、当事者への共感をベースに研究を進めようとしていました。第2回では、「ひきこもり」の集まりで自分の生きづらさを吐露したときに、ある当事者から「お前には大学院生という立派な身分があるではないか、引きこもったことがあるわけでもないのに自分たちの何が分かるのか」と、はねつけられてしまったエピソードを紹介しました。

 このときの私はろくに話を聞かないうちに、自分の苦しさでその人の言葉を上書きしてしまっていたのだと思います。とはいえ、人とうまく距離を取れないもどかしさや、先行きの見えない不安は、多くの当事者によって語られています。共感とは相手のなかに自分と「同じ」ものを見出したときに生まれるものですが、たしかに私と当事者との間には共通する何かがあり、だからこそ私の中には共感が生まれたはずなのです。そのため、なぜここまで拒否されなければならないのだろうかという不満や疑問も、実は抑えることができませんでした。それでも拒まれるには拒まれるだけの理由や事情があるからであって、たしかに謙虚さと丁寧さに欠けているところもあったと思い直し、私は当事者への共感を手放すことにしたのでした。

 ただし、前回の最後に書いたとおり、いまの私は当事者への共感を、以前ほどには自分に対して固く禁じていません。また、当事者と自分が「同じ」なのか「違う」のかということへのこだわりも、ほとんど失せています。昔と比べると、ずいぶんリラックスして現場にいられるようになった気がします。こうした変化がどのようにして生じたのかということから、今回は考えていきます。

 

「同じ」と「違う」が無効化される地平

 当事者に対して無理に共感しようとしない。ひきこもったことのない私にはどうしても理解できないものがある。そういう見地から博士論文をまとめて書籍化したあと、それを読んでくれたある当事者から、「まさかこんなにも深いところまで分かっているとは思わなかった」という感想をもらいました。当事者のことを分かりたい、私には分かるはずだと思っているときには、まったく言ってもらえなかったような一言です。分からないと認めたら逆に大きな手応えが返ってきたことに、喜ぶよりも前に、私はまず戸惑ってしまいました。

 ここで、当事者のことは分からないと認めたうえで、どのように当事者の経験を読み解いたのかを手短に振り返っておきましょう(詳しくは第2回第4回をご覧ください)。私がどうしても分からなかったのは、当事者の多くが「働きたい(働かなければならない)」とか「人ともっと関わりたい」といった切実な思いを持ちながらも、どうしても身動きが取れないでいるということでした。かれらはなぜ動けないのだろうか? この改めて立ち上がってきた問いに、私は次のような答えを出しました。

 当事者たちはひきこもることによって、また、ひきこもることを否定され続けることによって、生きることの意味とは何か、自分の存在価値とは何なのかといった、生をめぐる根源的な問い、すなわち「実存的問題」に向き合うことを余儀なくされている。呼吸をしていることに意識を向けた途端に息苦しくなってしまうように、生きることに真っ向から対峙することは生きることを難しくさせてしまう。そう考えれば、体が硬直しているかのように動かないことにも納得がいく、と。

 このようにして私は、当事者たちの苦しみを、就労や対人関係の難しさに留まらず、生きることそのものに深く食い込んでいるものとして捉え直したのでした。この観点から振り返ってみると、私のかつての共感は、こうした実存的な次元には届いていなかったことが分かります。

 そのことに気がついてから、当事者への共感に対するこだわりは、自分でも驚くほどに小さくなりました。生きることをめぐる葛藤から自由でいられる人などなく、もちろん私自身も例外ではありません。誰もが自分の意思や努力ではどうにもならない数々のままならなさに囲まれ、それらと何とかして折り合いをつけようともがいている。共感するもしないもなく、私たちはそういう意味で「同じ人間」なのだと実感することで、共感に囚われる必要がなくなったのです。

 それと同時に、当事者と自分は「同じ」なのか「違う」のかという問いも、ほどけていきました。しかし、だからと言って、ひきこもった経験の有無をはじめとする多くの「違い」を軽視しているわけではありません。むしろ上に述べたような意味で「同じ」だと実感できるようになってからのほうが、お互いの「違い」を冷静に受け止められるようになった気がします。

 つまり、様々な事情を抱えながらも、自分の置かれた状況のなかで必死に生き抜こうとしているのは、私も当事者も誰でも同じです。そうであるからこそ、それぞれの事情の大小や軽重を自分のものさしで勝手に評価せず、どういうものであれ何らかの事情を抱えているということ自体を尊重できるのではないでしょうか。高圧的になったり卑屈になったりしないで、当事者とフラットに関われるようになりたいと今は思っています。

 以下では、こうした見地から改めて見えてきた「ひきこもり」の支援をめぐるいくつかの問題に、焦点を当ててみようと思います。

 

「ひきこもり」の支援は不信に根ざしている?

 一つ目。「ひきこもり」の支援は結局のところ、ひきこもっている人びとへの不信に根ざしているのではないか、と思うことがあります。もちろん支援者や親御さんの多くが、ひきこもっている本人を心から思いやり、心配していることを否定するつもりはありません。しかし、心配と不信は紙一重です。

「あなたのことが心配だから何とかしてあげたい」というメッセージは、それを発している当人の意図は別にして、受け取る側には「あなたが自分だけでどうにかすることはできない。あなたは無力だ」というメッセージに聞こえてしまうことがあります。これは私自身が、親との関係でずっと感じてきたことでもあります。親は子どもがいくつになっても心配なのだということは分かりますし、そのことに感謝もしています。ですが、私には私の考えがあり、私なりのやり方があるということを、もう少し認めてほしいという気持ちも抱いてきました。

 とくに「経済的自立こそが自立である」という見方が強い今の世の中では、ひきこもっている人びとの多くは経済力を持たないがゆえに、なかなか「一人前の大人」としては認められません。しかし、いわゆる「社会経験」は不足していたとしても、生きてきた年数なりの経験が蓄積されていることを見逃すべきではないでしょう。

 にもかかわらず、かれらを未熟な存在とみなし、保護すべき対象として一方的に扱うことには、強い疑問を感じます。本人の意思と選択に委ねていくことが必要かつ大切だと思います。ですが、「本人の意思」なるものにアプローチすることには、難しさもつきまとうことも忘れてはいけません。この難しさについては第5回で論じました。

 

「ダメ人間」でもなく「聖人」でもなく

 二つ目。ひきこもっている人びとを無力で劣った存在、くだけた表現をすれば「ダメ人間」として扱うことは当然あってはなりません。ですが、反対にかれらを「聖人」のように扱うことにも問題を感じます。

たとえば、ひきこもっている人びとを肯定的に受け止めようとするなかで、しばしば次のような当事者像が語られます。かれらはとても優しく繊細な心の持ち主で、感受性も鋭い。多くの人が気づいていない社会の矛盾もしっかり見据えており、実は非常に高い能力を持っているのである――。無能扱いするよりはましなのかもしれませんが、どこか過剰な感じがして違和感を覚えます。

 そのせいなのでしょうか。こうした視線に対して抵抗を示す当事者もいます。もうずいぶん前のことになりますが、ある当事者とおしゃべりをしていたとき、その人がふと漏らした「俺はそんなに好青年じゃないよ」という一言が、深く印象に残っています。また、博士論文を書き上げたあと、また別の当事者にインタビューしたとき、何だか話をはぐらかされているような感じで、しっくりこないまま終わってしまったことがありました。しかし、音声データを文字に起こした原稿を後日読んでいて、自分が相手に対して「すごい」とか「素晴らしい」といった言葉を繰り返していたことに気がつきました。私はその人を意識せず「聖人」扱いしていたのです。話をはぐらかすような受け答えは、そういう私の扱いに対する抵抗だったのかもしれません。

 人間には良いところもあれば悪いところもあるという、ごくごくあたりまえのことを、なぜか「ひきこもり」の当事者に対しては忘れがちになってしまうようです。「ダメ人間」であろうが「聖人」であろうが、どちらも相手を一面的に捉えている点は同じです。また、針が振り切れている方向がマイナスとプラスの正反対ではあるけれども、どちらも当事者を特異な存在として捉えていることには変わりありません。

  

「あなたのために」の怖さ

 初回で支援における暴力について少し触れましたが、ある言動や振る舞いが暴力的に感じられるのは、自分自身の「本当のところ」を見てもらえず、相手の好きなようにされてしまうようなときではないでしょうか。ここにもやはり〈語れなさ〉が関わっているのではないかと思います。

 つまり、その人自身の声に耳を傾けようとせず、あるいは耳を傾けているつもりでも自分の聞きたいことだけを聞き、自分の「あたりまえ」で相手の言葉を上書きして塗り潰してしまう。そして、自分にとっての良いことと相手にとっての良いことの区別がつかなくなり、「あなたのために」というパッケージにくるんで押しつけてしまう。

 暴行を加えたり、罵詈雑言を投げつけたりすることは、とても分かりやすい暴力です。しかし、「あなたのために」という一見思いやりに満ちたその言葉が、幾重にも重なる〈語れなさ〉のうえに成り立っているのだとしたら、その言葉のもとになされることは、支援の顔をした暴力でしかないのではないでしょうか。

 これも初回で述べたことですが、支援とはどうしても暴力性を孕んでしまうものだと私は考えています。なぜなら、どれだけ誠実かつ慎重であろうとしても相手の意を汲みきることはできず、また、相手に対する自分の理解が正しいのかどうか誰にも判断することはできない以上、押しつけや決めつけを完全に取り除くことは不可能だからです。

 こうした限界があることを十分に承知したうえで、それでも苦しんでいる人を支援していくためには、その人の生を支えるためには、一体どういうふうにしていけばいいのでしょうか。あまりにも大きな問いで、一朝一夕に答えを出すことなどできません。そこで、ここでは私自身が望ましいと思う支援のあり方を、ひとつの提案として示してみたいと思います。

 

信頼に根差した支援を目指して

 やや極端な言い方になりますが、支援者にできることは、ひきこもっている当人が望むことや必要とすることを一緒になって探り、複数の選択肢を提示することだけではないかと、個人的には考えています。相談に乗ったり情報提供したりすることはあっても、決して当人の頭を飛び越えないようにして、どれを選ぶのか、あるいは何も選ばないのかは、すべて本人に委ねるべきです。

 しかし、それでも相手のことが心配だったり、自分自身が不安だったりして、何かやってあげたくなることがあると思います。とくに親御さんにとってはその連続でしょう。そんなときは自分の不安や心配をまずは自分自身できちんと受け止め、そういう気持ちでいることを相手に率直に伝えてみてはどうでしょうか。ただし、「あなたのためにやってあげる」ではなく、「私が心配で不安だから、やってあげたいのだ」と自覚し、相手にも明確に伝えることを忘れてはいけません。

 また、次の二つの「仕方ない」を心に留めておくことも重要だと思います。まず、相手がこちらの申し出を受け入れるかどうかは分からず、拒まれても仕方ないということ。次に、受け入れられたとしても自分の思うとおりにいくとは限らず、どういう展開になっても仕方ないということです。

 さらに二つ目について付け加えるならば、うまくいくことを期待しないようにすることも大事かもしれません。期待しないと言っても、それは「あなたにはできない(=あなたは無力だ)」と見るのとは違います。うまくいくかどうかという結果も含めて、とにかく本人にまかせてみるということです。相手を信じるとは、そういうことなのではないでしょうか。もしうまくいかなかったら、うまくいかなかったそのときに、その人の傍らにいる者として何ができるのかを、また考えればよいと思うのです。

 以上のラフスケッチは、次のことを前提にして描かれています。すなわち、ひきこもっている人びとは決して未熟で無力な存在などではなく、これまでの人生を通じて信念や知恵など多くのものを培ってきた存在であるということです。だから、かれらの頭を飛び越えて周りがあれこれ思い悩まなくても、自分にとって何が必要なのかは、かれら自身に、かれら自身のペースで考えてもらえばよいのです。

 支援を必要としていないわけではないけれど、支援する側にとっての望ましさを一方的に押しつけてくるのは勘弁してほしい、という当事者は少なくありません。ただし、本人の意向が最大限に尊重されるべきであることは言うまでもありませんが、だからと言って、支援する側が支援される側の言うなりになるのも違うだろうと思います。当然ながら支援する側も自分なりの考えや望ましさを持っており、それらを持ち出すこと自体は暴力ではないと私は考えます。

 また、「相手の助けになりたい」とか「あなたのために何かしてあげたい」という気持ちが全て欺瞞であると決めつけることも、それはそれで暴力的でしょう。苦しんでいる人を前にして自然と湧きあがってくるそういう気持ちを、無理に抑えつけるのも何だか不自然です。それでも、相手のためになるはずだと思って何かしようとするときには、その手前で「これはひょっとしたら相手にとっては嬉しくないことなのかもしれない」と立ち止まってみることが必要ではないでしょうか。そして、そのうえで可能な限り相手の〈語れなさ〉に配慮しつつ、その人の声を〈聴く〉ことができるようになれたらいいと思います。

 

おわりに

 ここまで相手の声を〈聴く〉とはどういうことなのかという問いを軸に、「ひきこもり」の支援のあり方について、そして、苦しみを抱えた人と向き合うということについて、私なりに考えてきたことを書いてきました。そのなかで「~するべきだ」という表現を多用しましたが、私自身がちゃんとやれているのかというと、まったくそんなことはありません。この連載のスタートで述べたことを最後に繰り返すと、私自身もまた、当事者の声をどれだけ〈聴くこと〉ができるのか問われているひとりに過ぎません。

 また、この連載で明らかにした望ましさや正しさは、現場での試行錯誤を通して形作ってきたものであり、これからも現場との関わりのなかで少しずつ形を変えていくでしょう。いえ、変わっていかなければならないと思います。望ましさや正しさの絶対化・硬直化は、暴力と密接につながっていると考えるからです。ここまでの議論を皆さん一人ひとりの培ってきた望ましさや正しさにぶつけることで、お互いにどんな展開が生まれるのでしょうか。これからも「ひきこもり支援論」は続いてゆきます。