ひきこもり支援論

第5回 〈聴くこと〉の難しさと〈語れなさ〉

 当事者たちは社会を前にして体が硬直するような〈動けなさ〉を抱えており、また、その〈動けなさ〉に言葉を与えることができず、周囲からの理解も得られずに孤立感や絶望感を深めています。前回は、そうした〈動けなさ〉をどのように読み解いていったのか振り返りました。そして、当事者の声を〈聴く〉とはどういうことなのか一定の見解を示したうえで、〈聴くこと〉を支援の根源として位置づけました。

 今回は、ひきこもっている本人の意思を尊重しなければならないという「ひきこもり」の支援の大原則に焦点を当て、〈聴くこと〉の難しさと〈語れなさ〉が背中合わせになっていることを明らかにしていきたいと思います。

 

「ひきこもり」を支援することの正当性

 2010年に厚生労働省が公開した『ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン』は、「支援者が心得ておかねばならない重要な留意事項」を確認するところから始まります。

 それは「ひきこもり状態に在る子どもや青年がすべて社会的支援や治療を必要としているわけではない」ということです。そして、「慢性身体疾患の療養過程で家庭に長くとどまる必要のある事例や、家族がそのような生き方を受容しており、当事者もその考えであるため社会的支援を必要としていない事例の場合、少なくとも当面は支援を要するひきこもり状態とはならないということを承知しておくべき」だと続きます。

 逆に言えば、ひきこもっている本人が「社会的支援を必要として」いる限りにおいて、支援活動は成り立つとされているわけです。ここでも挙げられているように、たとえば病気療養をはじめ、心身ともにひどく傷ついてしまったとき、あるいは創作活動に打ち込むときなど、他者との交流を断つことが一時的に必要な場合があります。つまり、ひきこもることはいつでも「問題行動」になるわけではないのです。

 こうした断り書きが冒頭でなされるのは、「ひきこもり」とはそもそも支援が必要なのかどうかということも議論の的になってきたからでしょう。たとえば、評論家の芹沢俊介さんのように、「ひきこもり」を治療・援助の対象にすることは、「ひきこもり」を「あってはならない事態」として否定するのと同じであり、そのこと自体が本人を深く傷つけてしまうという主張もあります(『「存在論的ひきこもり」論』雲母書房、2010年)。

 また、一般的に考えられている支援とは、ひきこもっている状態から抜け出させるための支援であると言えます。前回論じたように、何としても動くことができず、ひきこもるしかないという〈動けなさ〉を考えれば、本人が動き出せるようになるまで存分にひきこもることのできる環境を整えることも、立派な支援になりえます。ただし、こうした支援が主流になることはなく、せいぜいひきこもっている状態からの脱却におけるワンステップとしての位置づけが与えられているに過ぎません。

 では、ひきこもっている状態から抜け出させること、それこそが「ひきこもり」の支援だとされるのはどうしてなのでしょうか。そういう支援の必要性と正当性の根拠として持ち出されるのは、本人はひきこもりたくてひきこもっているわけではない、という非自発性です。以下はその典型的な説明です(塩倉裕『引きこもり』ビレッジセンター出版局、2000年)。

「援助の必要性は明らかだろう。本人は『抜け出したいけれど抜け出せない』と苦しんでいる場合が多く、自分には生きている価値がないと思い詰めたり二度と社会には戻れないと絶望したりしている例が珍しくない」

 つまり、本人が自発的にひきこもっているわけではなく、その状態から抜け出したいと望んでいるからこそ、支援が必要だとされるのです。このとき、ひきこもっている本人に最も身近な存在として、支援役割を期待されるのが家族です。しかし、「家族ぐるみで脱出不能の悪循環に入り込んでしまう傾向があり、当の本人や家族だけの努力では抜け出しにくいことが多い」(塩倉、前掲書より)ため、第三者が介入することで状況の改善を図ることになります。

 ですが、ひきこもっている本人は他者からの働きかけに対して非常に脆弱になっており、むやみな介入は本人をいっそう傷つけることになりかねません。そこで、支援する側には「当事者の自尊心と自発性に対する十分な配慮」(斎藤環『「ひきこもり」救出マニュアル』PHP研究所、2002年)が求められることになります。

 

「本音」と「言い訳」を聞き分けることはできるのか

 ただし、本人が支援を必要としているのかどうか、仮に必要としているのだとして、具体的に何を望んでいるのか、これらのことを確かめるのは決して容易ではありません。そして、このことは本人が自分の意思を把握しきれないとか、うまく言語化できないといった〈語ること〉の難しさのみならず、本人の声をどう受け止めるのかという〈聴くこと〉の難しさにも関わっています。むしろ後者の問題が大きいのではないかというのが、今回私が言いたいことです。

 この難しさについて、ある支援者の発言を通して考えてみたいと思います。その支援者とはNPO法人青少年自立援助センターの工藤定次さんです。工藤さんは長年にわたって、自宅への訪問と寮での共同生活を支援活動の中心に据えている方です。

 様々な支援手法のなかでも、訪問支援の是非はとりわけ盛んに論じられてきました。というのも、ひきこもっている本人が相談機関に直接出向いてくる場合とは違って、本人が支援を必要としているという前提を置くことができないからです。しかも、訪問支援はひきこもっている本人ではなく、かれらと一緒に暮らしている家族の要請に応じて開始される場合が多いため、強制性や暴力性を帯びやすいという問題もあります。

 工藤さんもこのことをよくよく承知しているのでしょう。著書では自身の支援方法とその拠って立つところを丁寧に説明しています。

 工藤さんの支援目標は、きわめて明快です。それは「自分の飯の種は自分で稼ぐ」ということに尽きます。そして、本人の希望も最終的には「本当はおれは働きたい。自分自身で生計を立てたい」というところに集約されると述べています(工藤定次・斎藤環『激論! ひきこもり』ポット出版、2001年)。

 この目標は「自分が真の意味で自由に生きられるのは、自分で日々の糧を得、誰からも干渉されないことだ」という、工藤さんの信念に裏打ちされたものだと考えられます。そして、自らの信念が利用者の求めるものと矛盾がないことを、たとえば卒寮生の次のような言葉を紹介することで印象づけています(工藤定次ほか『脱! ひきこもり』ポット出版、2004年)。

「自分で自分の生活費を稼いで自分一人で生活していると、あぁ、これでやっと自由になれた(略)って心から思えて、心にゆとりができたんだよね」

 ここで工藤さんの信念を批判するつもりはありません。また、卒寮生のこの言葉を否定するつもりもありません。ですが、次の箇所を読むと疑問がいくつも浮かんできます。長くなりますが引用しておきましょう(『脱! ひきこもり』より)。

「本人の中にある、『できない』という苛立ちから来る強い不安は、『やればできるはず』だが『自分はやらないだけ』という妥協、言いわけへとすり替わっていく。これははっきりと言ってしまうなら、自分に対する甘えだ。しかし、この甘えは何もひきこもりの若者だけにあるのではない。『できない』ことの辛さは、それを乗り越える手段が明確にされないとき、心はその苦しみに耐えられず、自分のプライドが傷つかないような言いわけを探し出す。こんな経験はきっと誰にでもあるはずなのだ。そんな本人の妥協を、周りの人間が『そういう状態でいいんだよ』と理解を示す。(略)本人にしてみれば、真綿で首を絞められるような苦しみに違いない。自分は本当は働きたいのだから」

 先ほど引用した卒寮生の言葉はそのまま受け入れているのに対して、ここでの工藤さんの態度は厳しいものです。とくに注目したいのは、本人は「本当は働きたい」と思っているのだから、周囲が「妥協」に「理解を示す」ことは、かえって本人に「苦しみ」を与えることにしかならない、という見方です。しかし、「できないこと」の「不安」や「辛さ」から出てくる言葉を「妥協、言いわけ」へのすり替えと捉え、「甘え」として切り捨てることもまた、同様に本人の「苦しみ」を深めることにはならないのでしょうか。また、「働きたい」だけが「本当は」といったかたちで本音として扱われていることも疑問です。

 以上から指摘したいのは、当人の意思を一番に尊重すべきだとしながらも、実際には支援する側の信念や常識、それに根ざして設定される目標に照らして、本音とそうではないものとを、支援する側が区別してしまっている可能性です。ひきこもっている本人の意思を尊重するという支援の原則そのものに批判すべき点はありませんが、支援する側が本人の意思をきちんと受け取ることができているのかどうか、そのことは常に批判的に点検・評価する必要があると考えます。

 本音とそうではないものを恣意的に区別しているかもしれないということは、支援活動に携わっている人だけではなく、ひきこもっている子どもを抱える親や、私のような研究者など、ひきこもっている人たちと何らかの関わりを持つ者全てが、重く受け止めなければならない問題です。

 

「語れること」=「聞いてもらえること」

 前回も述べたように、当事者の苦悩の一端は、自分の経験にうまく言葉を与えられないというところにあります。しかし、その一方で、自分の経験や思いを丁寧かつ的確に表現することに長けている人も少なくありません。とはいえ、かれらも元来話し上手だったわけではなく、長きにわたって自分の内面を見つめ、深く掘り下げていくなかで、少しずつ言葉を耕してきたのではないかと思います。ですが、そういう人たちはそういう人たちで、自分の経験を言語化できないのとはまた異なった〈語れなさ〉を抱え込んでしまうことがあるようです。

 これまで出会った当事者のなかでも、飛び抜けて語るのが上手な人がいました。Aさんとしておきましょう。Aさんは一時期、親の会や講演会などで引っ張りだこになっており、私もそのユニークな語り口に惹かれてインタビューを申し込みました。体験談を発表することは自分自身の人生を再確認するいい機会になったとAさんは語りつつ、他方、自分の「正直な感覚」に基づいて話せていたのは最初のうちだけだったという話も出てきました。

 回数を重ねるうちにどんどん「形骸化していくというかパターン化」していった、とAさんは語ります。これはただ単に、繰り返し語ることで新鮮味が失われていったということではないようです。ここにはもう少し根深い問題が潜んでおり、そこにピントを合わせることで、〈聴くこと〉の難しさと〈語れなさ〉が背中合わせになっていることが見えてきます。まずはAさんの話に耳を傾けましょう。

「カルチャーセンターの生き方講座みたいなところで話すんじゃなくて、当事者を抱えた親御さんとか、場合によってはひきこもっている本人、支援している人とか、『ひきこもり』にまつわる人が話を聞きにくるんで、だいたい、その先にあるニーズと、こちらがしゃべることとの合わせどころっていうのが見えてきて。で、親にとって聞きたくないことはやっぱり言えないっていう暗黙の了解っていうかな。そういうプレッシャーは常にあって。本当のことが言えないなあっていうのはあったよね」

 たとえば、親御さんが数多く参加していたあるイベントでのことです。親の年金があったからひきこもっていられたと発言した途端、会場がざわつき、それから聴衆が「すーーーっ」と引いていくのが分かったそうです。そうした反応を見てAさんは、「なかなかこういうことは言えないんだなぁ」と感じたといいます。

 このように、自分にとっては「本当のこと」だったとしても、「親にとって聞きたくないこと」は言ってはいけないという「プレッシャー」に晒されるなかで、Aさんは聴衆の「ニーズ」に合わせて語ることを学んでいったのでしょう。ただし、そうやって話題を選ぶようになったのは、ただ周囲の暗黙裡の要求に応じたからだけではないようです。次の発言からは、否定的な反応を回避するために、Aさんが自ら聴衆の「ニーズ」を先取りしていたことがうかがえます。

「自分で勝手に統制してたっていうか、嫌われちゃまずいしな、とかね。石は投げられないだろうけど」

 また、体験談を発表するようになったばかりの頃は、自分の話に真剣に耳を傾け、応援してくれる人が大勢いることに勇気づけられたとも、Aさんは語っていました。つまり、Aさんにとって人前で語ることは、先ほど述べたように自己理解を深めるのみならず、他者からの承認を得る機会にもなっていたと考えられます。

 Aさんに限らず数多くの当事者と接するなかで分かったのは、かれらがどれほど自分自身を貶め、いかに社会への疎外感や不信感に塗り込められているのかということでした。こうした苦しみを念頭に置いてみると、相手の顰蹙(ひんしゅく)を買わないように率直かつ正直に語るのは控えておこうという判断が、無意識的であれ働いたとしても無理はないように思えます。

 ですが、そうやって抑制的に語ることで共感的な反応を引き出すことに成功したとしても、自分が本当に語りたいことを語れない状況が長く続けば、不全感が積もり積もってゆくことになってしまうのではないでしょうか。Aさんのエピソードの冒頭で触れた語りの「形骸化」という発言は、ひょっとしたら、そうした不全感を表していたのかもしれません。

 

「ひきこもっている本人の意思を尊重しなければならない」?

「ひきこもっている本人の意思を尊重しなければならない」というのが、「ひきこもり」の支援の大原則でした。しかし、当事者の語ったことを、本人がそう語ったというだけで、その人の意思表明として素朴に受け取ることはできません。Aさんのエピソードから浮かび上がってくるのは、周囲の求めているものを敏感に察知し、あらかじめ「語れること」と「語れないこと」(裏を返せば、聞き手にとって「聞きたいこと」と「聞きたくないこと」)を区別している当事者たちの姿です。もっと言えば、当事者の「本音」のように聞こえるものは、実は聞き手の期待に沿うように操作されたものに過ぎないかもしれないのです。

 だからといって、当事者の発言は疑ってかかるべきだと言いたいわけではありません。また当事者自身も、ここまで論じてきたようなことを十分に意識して、周到に語りを操っているわけではないでしょう。私が言いたいのは、支援の大原則に忠実であろうとするならば、当人の意思の見極めは慎重すぎるくらいでちょうどいい、ということです。

 当事者が周囲の期待に合致するように「本音」を作り上げ、周囲は自分が受け入れられることだけを「本音」としてピックアップする。こうした両者のやり方が奇妙に噛み合えば、あたかも本人の意思が尊重されているかのような事態が現れることでしょう。ですが、それはあくまでそう見えるというだけのことでしかありません。このようなことが続けば結局のところ当事者の「本音」は宙に浮いたままになり、支援が空洞化していくことも十分にありえます。

 そもそも「本音」とは、そのときそのときで揺れ動くものであり、また一つに絞ることができないようなものではないでしょうか。したがって、本人でさえもそれを正確に把握するのは極めて難しいように思います。

 それでも相手の「本音」なるものにアプローチしようとするならば、聞き手が次のことをしっかりと認識しておくことが重要だと考えます。それは、ひきこもっている本人(語り手)が何をどれだけ語れるのかは、その人自身が自分の経験をどのくらい言語化できるのかにだけかかっているのではないということ。そして、支援する側(聞き手)がどれだけ「聞く耳」を育てられているのかにも大きく左右されるということです。

 自分の常識や価値観、期待にそぐわないことであっても聞き手がそれをいったん受け止め、そのうえで分からないことがあれば質問し、また自分の感じたことや日ごろから思っていることをまっすぐ伝えることができるようになりたいものです。そういうやりとりを通して信頼関係は育まれ、率直に話しても大丈夫だという安心感が醸成されていくのではないでしょうか。そしてまた、やりとりのなかで新たな気づきや視点が生まれ、その人自身にとってもあやふやだったものが、少しずつ明確になっていくのではないでしょうか。

 もしかしたら、「本音」とは相手から引き出すものではなく、相手と一緒に探っていくものなのかもしれません。

 

もう一つの〈語れなさ〉

 さて、今回までのところで二つの〈語れなさ〉を指摘してきました。一つ目は、自分が直面している困難や問題状況を言語化できないという〈語れなさ〉です。二つ目は、自分の経験を言語化できたとしても、それを率直に語ることが許されない状況があるという意味での〈語れなさ〉です。

 次回はさらに、語ったことが自分の思いや意図にそぐわないところで勝手に理解されてしまうという、もう一つの〈語れなさ〉を指摘したいと思います。そのうえで、ふたたび共感についても考えてみたいと思っています。

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