ひきこもり支援論

第3回 支援における共感・受容の落とし穴

 前回は、共感にこだわることの落とし穴を調査の文脈で論じました。今回はそれを踏まえて〈聴くこと〉について掘り下げていくつもりでしたが、ちょっと予定を変更して、支援の文脈における落とし穴についても考えてみたいと思います。

 2011年に内閣府が公表した『ひきこもり支援者読本』の第1章「ひきこもりの心理状態への理解と対応」をもとに、引きこもっている本人への「適切な接し方」を確認することから始めましょう(なお、執筆担当は精神科医の斎藤環さんです)。

引きこもっている本人に接するときの基本姿勢

「ひきこもり」の支援は、家族(とりわけ両親)が相談機関を訪れることから始まることが多いため、最初は家族を通して引きこもっている本人にアプローチしていくことになります。このとき、家族は自らがケアを必要とする「対象」であると同時に、引きこもっている本人をケアしながら自立へと促す「主体」になることも求められます。

 では、もっとも身近な「支援者」として、家族はどう振る舞うのが適切だとされているのでしょうか。引きこもっている本人と接するときの基本的な姿勢について、『ひきこもり支援者読本』ではこう述べられています。

「慢性化したひきこもり状態に対する説得・議論・叱咤激励は、有害無益なものでしかない。(中略)信頼関係を築くためには、まず両親が、一旦は本人のひきこもり状態をまるごと受容する必要がある」。

 ここで前提になっているのは、「本人が、誰よりも自らのひきこもり状態を恥じている」という認識です。本人は引きこもっている状態に甘んじているわけではなく、悩み苦しんでいる。だから、その葛藤に追い打ちをかけるようなことは決してすべきではない、というのです。「説得・議論・叱咤激励」は本人をいっそう追い詰め、頑なにさせることにしかなりません。

 そこで、まずは「安心してひきこもれる関係づくり」を目指すことになります。ただし、「これは必ずしも『ひきこもりの全肯定』という意味ではない」と注釈が加えられており、「家族と本人が忌憚なく『交渉』できるテーブルに着くための最初の地ならしとして、ひとまず避けて通れない手続なのである」と説明されています。

 そして、本人を安心させるには「おしゃべり」が大事であるとして、このあとに具体的なアドバイスが続きます。それらに対しては異論ないのですが、今後のことを話し合ったり、相談機関に行くように勧めたりするなど「本人が受入れ可能な範囲で自立への働き掛けを試みる」ために必要な「手続」として、「安心してひきこもれる関係づくり」を捉えている点は、どうしても首肯できません。

支援における共感・受容の落とし穴

 いま紹介した解説からは、相手をコントロールしたり、支援する側が望ましいと思う方向に水路づけたりするための手段として、共感・受容を扱っているような印象を受けます。ですが、支援において共感と受容が欠かせないとされるのは、それ自体が相手にとって大きな助けになるからではないのでしょうか。
 本人を誘い出すために共感や受容を利用するようなことは、あってはならないはずです。それは相手に対して失礼であるばかりでなく、自分自身にも負荷をかけることになってしまうからです。

 親の会に長らく参加している人や、支援者として関わっている人から度々聞く話ですが、「引きこもっている子どもを焦らせてはいけないというのでそっとしてきたが、いっこうに変化が見られない。自分は一体いつまで我慢すればいいのか」と、嘆く親御さんが少なくないそうです。また、当事者からも、親は自分を見守ってくれているとばかり思っていたら、あるとき突然、怒りと不満をぶちまけられて困惑したという話を聞いたことがあります。

 こういう人たちは、本人を責めたり問い詰めたりしてはいけないと指示されているから黙っていただけで、実際には共感も受容もできていなかったということなのでしょう。そのため鬱々とした気持ちを溜め込み、ついには抑えきれなくなってしまったのだと思います。引きこもっている本人からすれば、日ごとに責め苛まれるのも耐えがたいけれど、突拍子もないタイミングで感情を爆発させられるのも、また相当に苦しいだろうと想像します。

 共感しよう受容しようと思っても、人の心はそう都合良くは動きません。また、何でもかんでも相手に伝えればいいわけでは当然ありませんが、自分の気持ちを無理に押し込めて、相手の顔色を窺うだけになってしまうのも良いとは思えません。では、どうすればいいのでしょうか。

 前回は、当事者への否定的感情を潔く認め、自分の感情をじっくり観察することが、調査の行き詰まりを打破するきっかけになったことを振り返りました。もちろん調査と支援を完全に同一視することはできませんが、それでも突き詰めてゆけば、どちらも基盤は相手との人間関係です。そこで、同じことを支援においても試してみることを、今回は提案したいと思います。

当事者への否定的感情の源泉

 さて、当事者が「働きたい」とか「人と関わりたい」と訴えながらも動けない(動かない)のはなぜなのか。それがどうしても分からないことが、かれらへの苛立ちやもどかしさを生んでいたことは、前回述べたとおりです。当事者への否定的感情の源泉として、こうした不可解さのほかに、今のところあと3つくらいのことを考えています。

(1)日本社会の常識や支配的な価値観

 たとえば、「働かざる者食うべからず」という価値観が根強く、また「友人が少ない人は不幸だ」というまなざしが強まっている今の世の中では、引きこもっていることは、ただそれだけで「悪いこと」になってしまいます。
 こうした価値観や常識は、たいていの人にとって「ふつう」のものです。これは3つめの話とも関連しますが、世間の常識に沿って真面目に生きてきた(生きようとしている)人ほど、引きこもっている人を強く拒絶するように感じます。その反応は、自分の「ふつう」が揺さぶられることへの自衛なのかもしれません。
 私たちは自分の人生を一生懸命生きるなかで、それぞれに「ふつう」を培っていくものです。したがって、自分の「ふつう」をいきなり変えることは非常に難しいでしょうし、それを性急に求めるのは暴力的でもあります。しかし、それでも引きこもっている人と向き合おうとするならば、かれらへの否定的感情を手がかりに、自分の「ふつう」がどういうものなのか確かめてみることが必要だと思うのです。
 ただし、人によって「ふつう」は様々なので、引きこもっていることをさほど問題視しない人たちがいることも、付け加えておきます。

(2)引きこもっている本人への心配

 これはとくに親御さんに顕著だと思うのですが、子どもの先行きを案じ、自分が死んだ後はどうやって生きていくのかと憂えるあまり、「いつまでそうしているの?!」と怒ってしまうことが多々あるのではないでしょうか。支援者であっても、相手に対して親身であればあるほど、こうした気持ちに駆られるのではないかと思います。

 しかし、極端な言い方をすれば、心配とは心配する側が勝手にするものであって、相手に押しつけるべきものではありません。また、「あなたが心配なのだ」は、実は「あなたがしっかりしてくれないと私の不安が消えないのだ」ということかもしれません。心配がいつでも利己的なものだと言いたいわけではありませんが、「あなたのために」と「自分のために」を混同してしまっていないか、注意深くありたいものです。
 そして、いま言ったことと矛盾するようですが、複雑な感情が渦巻きながらも「あなたのことが心配だ」とストレートに伝えることができたら、見えてくる景色も少しは変わるのではないかという気がします。

(3)自分自身の苦労や生きづらさ

 こちらは、大学の講義で「ひきこもり」を取り上げたときの学生の感想や、新聞の投書欄、ウェブ掲示板への書き込みなどに、よく見え隠れするものです。強引にまとめれば、「自分はこんなに大変な思いをしている(してきた)のに、ずっと引きこもっているなんて許せない」といった感じでしょうか。

 この怒りをもう少し掘り下げてみると、「引きこもれるものなら自分も引きこもりたい(引きこもりたかった)のに」といった羨望や嫉妬が混じっているようです。しかし、引きこもっている人たちは悠々自適に暮らしているわけではありませんし、そもそも、こういうことを言う人たちの苦労や生きづらさは、引きこもっている人たちによって直接もたらされたのでもないはずです。共感とは逆向きではありますが、この場合もやはり、引きこもっている人と自分とを重ねて見ているのかもしれません。

 そして、4つめが引きこもるという経験の不可解さです。このほかにも否定的感情の源泉になっているものはあるでしょうが、ともあれ、どんな感情であってもそれを自分のものとして認め、距離を置いて眺めてみること、そのうえで、どうすれば折り合いをつけられるのか考えていくことで、引きこもっている本人と無理しすぎずに付き合える道筋が見えてくるのではないかと思います。
 
「受け入れる」ではなく「受け止める」

 2つめの提案は、共感・受容をいったんあきらめることです。共感については前回しつこく書いたことの繰り返しになる部分が多いので、ここでは受容を中心に考えていきます。

 受容をあきらめると言っても、それは引きこもっている人との対立をそのままにしておくとか、必要以上に関心を持たないようにするとかいったことではありません。受容の捉え方を少しずらしてみませんか、という提案です。具体的には、受容の意味合いを「受け入れる」から「受け止める」に書き換えてみてはどうかと考えています。

「受け入れる」という言葉を聞くと、私の中では、相手の投げたものを何でも飲み込んでいくイメージが浮かんできます。投げられたものを抵抗なく、できれば美味しく飲み込めればいいのですが、ものによっては自分の口に合わなかったり、うまく飲み下せなかったり、消化できずに戻してしまったり、反応は様々でしょう。また、体調によっても違うかもしれません。いずれにしても無理に飲み込むことは苦しく、苦しさのあまり投げられたものを地面に叩きつけてしまうことだってありえます。

 自分が向き合おうとしている相手の言葉、あるいは相手の存在そのものを受け入れるのも、これと同じような感じではないでしょうか。相手の痛みを分かってあげたい、何とかしてあげたいと思い、相手もそれを望んでいたとしても、すんなりと受け入れられないことが多々あります。そういうときに様々な感情を抑えこんで無理やり受け入れようとしても、先ほど述べたように余計な負荷を自分にかけて、かえって相手との関係を悪化させてしまう可能性があります。これでは元も子もありません。

 相手を突き放すわけにはいかないけれど、受け入れようとすれば自分が壊れてしまいそうな状況に陥ったときには、相手と向き合えるギリギリのラインを探る必要があります。そのラインのひとつに加えてほしいのが、「受け止める」という態度です。

 相手の投げてきたものをただちに飲み込もうとせず、まずは胸のところでしっかり受け取る。それから手のひらに載せてしげしげと眺め、その手触りや形状を確かめてみる。そんなイメージです。ちょっとだけかじってみて、これは一体何なのかと相手に尋ねてみるのもいいかもしれません。

 また、どんなに頑張って受け取ろうとしても、相手の投げ方が乱暴だったり、あまりにもスピードが速かったりすれば、うまく受け取ることはできません。そうしたら、ちゃんと受け取りたいから投げ方を変えてほしいと、相手にお願いしてよいと思います。

 あるいは、投げられたものを受け取れたとしても、何を投げてきたのかさっぱり分からず扱いに困ってしまうこともあれば、ちょっと舐めてみたら非常に苦くて口に入れられないようなこともあるでしょう。そうしたら、それを相手にそのまま伝えて、向こうの反応を見てみるのもひとつの手です。

 そんなふうに相手の言葉や思いと適度に距離を取りつつ、相手が何を伝えようとしているのか考えてみる。加えて、自分がそれに対してどんなふうに反応しているのか、それがどう見えているのかということも見つめてみる。これが「受け止める」という言葉で私が表そうとしていることです。

 このとき大事なのは、相手が何を伝えようとしているのか分からなかったとしても、適当に分かったふりはしないで、分からないままにしておくことだと思います。分かったふりをすること、分かったつもりになることの危うさは、前回、私自身の経験からある程度は書けたつもりです。分からないものはいったん分からないままにしておき、そのうえで自分が何をどこまで分かっているのか考え、それを相手にも伝えること。それが「受け止める」ということではないでしょうか。

共感・受容を自分に求めすぎない

 どうしても共感・受容できないのであれば、そういう自分を認めてあげてもいいのではないでしょうか。そして、そういう自分をそのまま相手に見せるしかないのではないでしょうか。私はそんなふうに思います。それに対して相手が何を感じ、どういう反応をするのかは、相手の問題です。相手に一切を委ねることなしに、関係を築いていくことはできません。

 「あなたの言っていることを完全には理解できないし、いまは実感も共感もできていないけれど、あなたが苦しんでいることだけは分かったよ」と伝えることができれば、まずは十分ではないでしょうか。そのあとも地道にやりとりを続けていくことのほうが、ずっと大切なのではないかと思います。共感・受容とはその過程で可能になるものであって、共感・受容ができなければ関係性を一切築いていけないということではないはずです。はじめから共感・受容ありきで関係を紡いでいくことには、無理があるように思うのです。

 さて、「あなたの言っていることを完全には理解できないし、いまは実感も共感もできていないけれど、あなたが苦しんでいることだけは分かったよ」という投げかけは、共感・受容をいったんあきらめなければ発することができません。そして、自分には分からないことがあると認め、また何が分かっていないのか明確になっているからこそ、そんなふうに投げかけることが可能になります。ずいぶん長く書いてきましたが、前回の最後に辿り着いた「分からないことが分かる」という〈聴くこと〉の出発点に、ようやく合流することができたわけです。

 それでは、次回はふたたび私自身の経験に戻って、当事者の〈動けなさ〉をどう読み解いていったのか振り返りながら、〈聴く〉とはどういうことなのか考えていきたいと思います。

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