ひきこもり支援論

第2回 どこから〈聴くこと〉は始まるのか

 前回は、「ひきこもり」の支援において長らく「当事者不在」の状況が続いてきたことを指摘しました。そして、その状況は、当事者が自分の思いや経験を十全に言語化できないことに加えて、言語化されたものが周囲に聞き届けられないということ、この二重の〈語れなさ〉によって生み出されている可能性を示唆しました。この連載では、おもに後者の意味における〈語れなさ〉に焦点を当てて、当事者の声を〈聴く〉とはどういうことか、どうすれば〈聴くこと〉ができるのか、といったことを掘り下げていきます。今回は自己紹介も兼ねて、私のこれまでの足取りを辿り、〈聴くこと〉のスタート地点に立ったところまでを振り返ってみたいと思います。

2つの難問

 前回の終わりに少し触れたように、私は研究者として「ひきこもり」に関わっています。「ひきこもり」に関連する様々な集まりに足を運びながら、自助グループや支援団体に当事者として関わっている人たちを中心にインタビューを行なってきました。そして、かれらの語りを丹念に読み解き、当事者にとって引きこもるとは一体どういう経験なのか明らかにすることを課題に掲げてきました。私の研究の中核を成しているのは、まさに当事者の声を〈聴く〉ことにほかなりません。そこにこだわり、力を注いできたのも、やはり「当事者不在」を問題視してのことでした。

 私が調査研究を始めたのは2000年末、「ひきこもり」が世間の注目を集めるようになってから間もない頃です。前回紹介した勝山実さんが言うところの「本人不在の大騒ぎ」の只中でもあります。次々と出版される関連書籍を手に取っても、引きこもっている人たちがどういう思いで日々過ごしているのか知ることのできるものは、ほとんどありませんでした。それなら自分が当事者に直接会って話を聞けばいいのではないか。そんな単純で素朴な考えから調査を始めたのでした。しかし、というより当然と言うべきか、私はすぐに壁にぶつかることになりました。まず頭を抱えたのは、次の2つの問題でした。1つは、「ひきこもり」の当事者とは誰なのか、ということ。もう1つは、当事者に対して自分はどういう立ち位置を取ればよいのか、ということです。1つずつ振り返っていきましょう。

「ひきこもり」の当事者とは誰のことか

 ここまで何気なく「ひきこもり」の当事者という言葉を使ってきましたが、そもそも「ひきこもり」の当事者とは誰のことなのでしょうか? 一般に「当事者」とは、問題を抱えている本人、あるいは当該の問題に直接関わりのある人たちを指します。後者の意味で取れば、引きこもっている本人だけでなく、引きこもっている子どもを持つ親、支援者、調査者や取材者も含まれることになります。さらに広く捉えれば、「ひきこもり」が問題化しているこの社会にともに生きているという点では誰もが無関係ではなく、したがって、私たちの全てが当事者であることになります。この最後の意味における当事者性を私たち一人ひとりが認識することはとても大事だと考えていますが、ここまで広く取ってしまうと、もはや「当事者」という言葉を使う必要もないでしょう。

 それでは、現場(支援現場だけではなく「ひきこもり」に関連する様々な場を含むものとして、この言葉を使いたいと思います)ではどうかと言うと、引きこもっている本人に限定して「当事者」とする用法が、かなり早いうちから広まっていたと記憶しています。ですが、これもすぐに「引きこもっている」とはどういう状態なのか、つまりは「ひきこもり」をどう定義するのか、という次なる難問にぶつかってしまいます。

「ひきこもり」をどう定義するか

 厚生労働省が2003年に全国の精神保健福祉センターと保健所に通達した対応のためのガイドラインでは、「さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」という定義が示されました。ですが、「社会的な参加」とは何を意味するのか、「長期」とは具体的にどのくらいの時期なのか等々、分かったようで分からない感じがします。このほかにも複数の論者が作成した定義が乱立し、「ひきこもり」とは何なのか、当事者とは誰なのかをめぐって、現場では混乱が生じていました。また、ウェブ上の掲示板をのぞいても、当事者と思われる人たち同士の間で、誰が本当の「ひきこもり」なのかをめぐる争いが繰り広げられていました。

 そうしたなかでもっとも現場に浸透し、影響力を発揮したのは、精神科医の斎藤環さんによる定義でした。斎藤さんは「ひきこもり」を「①(自宅にひきこもって)社会参加をしない状態が6ヵ月以上持続しており、②精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。(ただし「社会参加」とは、就学・就労しているか、家族以外に親密な対人関係がある状態を指す)」と定義しています(『「ひきこもり」救出マニュアル』PHP研究所、2002年)。この定義でもっとも特徴的なのは、就学・就労に加えて対人関係と関連づけて「社会参加」を規定した点です。これ以降、「ひきこもり」とは家族以外の人と長期にわたって交流が失われている状態である、という捉え方が定着していきました。私も「引きこもっている」という動詞形を使うときは、このような状態を念頭に置いています。

 しかし、だからと言って、この定義を無批判に受け入れているわけではありません。なぜなら、この定義は医者の立場から、治療・援助の方針を明確にすることを意図して作成されたものだからです。このことは「6カ月」という基準について、「早すぎず、遅すぎない対応を講ずるために、私はそのように設定しました」と説明されていることからも明白です(前掲書)。そういう定義に依拠して調査を行なっても、治療・援助という枠に合わせて人々の経験を切り取るだけになってしまいます。

自分は「ひきこもり」なのか?――曖昧さを掬い上げる

 それ以上に重要なのは、この定義から外れていても当事者として支援団体や自助グループに参加している人が、まったく珍しくなかったことです。たとえば、働いてはいるが友人はひとりもなく、休日は家にこもって孤独に過ごしているといった人です。また、インタビューで次のように語った人もいました。「別にずっと(自宅や自室に)こもっているわけでもないし、外にも出るし、友だちもいるし、人間関係もあるしっていう自分の状態を見たときに、俺ひきこもりか? っていうさ。いや、どう考えても違うだろうと。ということは当事者でもないんだろうと。かと言って完全に抜け出した人でもないから」。

 これは「今、自分のことを『ひきこもり』だと思いますか?」という質問に対する答えの一部です。この人は2年ほど引きこもった経験を持ち、当時は自助グループの運営に積極的に携わっていました。対人関係の有無に触れていることからは、斎藤さんの定義を踏まえていることがうかがえます。先ほどの質問には「ノー」と即答していましたが、その一方で「完全に抜け出した人でもない」と、自分の立場を明確にしきれないようでした。

 外出もするし友人付き合いもあるならば、考えるまでもなく「ひきこもり」とは言えないのではないか? そう思った読者の方は少なくないと思います。また、支援団体や自助グループに参加している時点で、その人はもう引きこもっていないのではないか? これも、大学の授業や講演会で必ずと言っていいほど出てくる質問です。たしかに斎藤さんの定義に沿って考えれば、そういうことになるでしょう。ですが、あらかじめ作成された定義に当てはまる人を当事者として選び出し、いくら話を聞いたところで、それは結局のところ「当事者不在」を助長することにしかならないのではないでしょうか。

 それよりも大切にしなければいけないのは、いかなる定義に当てはまらなくとも自らを「ひきこもり」の当事者とみなしている人や、自分が「ひきこもり」なのかどうかは分からないけれども自助グループや支援団体に関わり続けている人が、現にいるということです。そこで私は、そういう人たちの思いや経験に焦点を当て、かれらの語ったことに根ざして「ひきこもり」とは何なのか明らかにすることを、調査目的に据えることにしました。つまり、本人の自己規定に着目して「ひきこもり」の当事者を捉えることにしたのです。そのうえでなお私が悩まされたのは、そういう人たちに対して自分の立ち位置をどう取ればよいのか、ということでした。

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