ちくまプリマー新書

ふつうの人びとのための理性的古典案内

 『古典を読んでみましょう』は、書名の通り、日本の古典を実際に読んで味わう本である。取り上げるのは、竹取物語、源氏物語、枕草子、平家物語、徒然草、たけくらべなど、れっきとした定番ばかり。これ以上まともな本はない。
 橋本氏によると、日本の古典は読んでもわかりにくい。《言葉がまず違い》、《考え方だって違ってい》るからだ。そのわかりにくさの、しこりの核の部分を、するるっと解きほぐしていく。その手さばきが爽快である。これはきっと、橋本氏自身が、あれ?おや?と初歩的だが本質的な疑問にぶち当たり、それをごまかすことなく最後まで追いかけた、その経験のエッセンスを伝えてくれているからだろう。ものの一○ページも読み終わらないうちに、ずっとこのまま古典の世界に浸っていたいという、しあわせな気持ちが湧いてくるはずだ。
 最初に読むのは、樋口一葉の「たけくらべ」。明治二十年代末の小説だが、歴史的かな遣いで、源氏物語のように「。」がないままだらだら続いていく文体なので、小手調べにちょうどよい。有名なその書き出しはこうである。
《廻れば大門の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明暮れなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角を曲りてより是れぞと見ゆる大廈もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長屋、商ひはかつふつ利かぬ所とて、半さしたる雨戸の外に、怪しき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田楽みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、…(後略)》
 まずこれを黙読しなさい。それから、声に出して音読しなさい、と橋本氏はアドヴァイスする。意味がわからなければ音読できない。声に出すと、文章の意味やリズムが身体に滲み入ってくる。読解の第一歩だ。そしてヒントもいろいろ教えてくれる。《大門》(おおもん)は吉原の入り口、《見返り柳》は帰路につく遊客が名残り惜しげに振り返る地点。誰でも知っている地名で色街のイメージを鮮明に提示し、そこからゆっくりパンして主人公の美登利(みどり)が住む裏長屋へと俯瞰を移動させていく、映像的な表現である。作者と読者のチカチカ点滅する頭の中身の交錯やその計算、間合いが推し量れれば、この文章が過不足なくわかったことになる。古典を読むとは、いまとは違った過去の時代を生きる人びとの思考や感性を、わがことのように味わう営みにほかならない。
 調子が出てきたところで、いよいよ本格的な古典を順に読んでいく。たとえ短い断片でもいいから、本物のテキストと向き合ってみる、がこの本のコンセプトである。そして、ひとつまたひとつと古典を読み進むうちに、点だったものが線となり面へと広がるように、日本語という言語の成り立ちや固有の困難について、おのずと視界が開けていく。漢字を移入し漢文を公用語としたこと。和歌が男女の交流に不可欠だったこと。かな文字が考案され物語が編まれるようになったこと。漢字かな混じり文の文体が成立しのちの書き言葉の祖型となったこと。国文学の編年と見せかけながら、橋本氏は、フーコーの知の考古学さながらの、集合的な精神のダイナミズムをスケッチしてみせる。誰もが及ばない、本書独自の世界である。
 橋本氏は、古典のおのおのに内在してその本質を体得し、作者自身が語るかのように、読者に語りかけてくれる。その説得力は、折口信夫氏を思わせる風格がある。ただ、違いもある。折口氏は古典に言わば憑依し、有無を言わさぬかたちで上古の精神世界はこうだと示す。いっぽう橋本氏は、思案し、行きつ戻りつしながら、ふつうの人びとが理解できるかたちで、あくまでも理性的に古典の世界を再構成する。方法(手の内)を明らかにし、ロジカルに議論を進める、科学的な作業である。ゆえに私は、橋本氏の作業に信頼を置く。
 本書は、中高生の若い読者を念頭に書かれているが、その射程はこれまでの国文学や歴史学の水準を突き抜けて、その先に届いている。大人の読者にこそ読んでもらいたい。

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