筑摩選書

教科書が教えない、日本人の「無意識」とは?

戦前、多くの日本人は総動員体制に抗うことができず、戦争に巻き込まれていきました。総力戦に敗れ、戦後という時代が始まったとき、実質的には「アメリカ大権」となったのにもかかわらず、鋭敏な知識人ですら、それを直視できずにいます。一体なぜか? 戦前の「聖典」たる『国体の本義』の解読を通して、戦前・戦後を貫流する日本人の「無意識」を討究した『皇国日本とアメリカ大権』、その序章(一部)を公開します。ご一読ください!

(前略)

●『國體の本義』の恐ろしさ

 昭和の総動員体制は、法令などさまざまな強制手段をそなえている。
 けれどもそのことより大事なのは、人びとが主体的・積極的に、自ら進んでこの体制に献身していく仕組みが、用意されていることである。
 その仕組みを提供するのが、『國體の本義』だ。
『國體の本義』が提供するのは、世界観である。この世界を理解し、この世界に立ち向かう、「正しい考え方と行動の原理」である。『國體の本義』は、「正しさ」を生み出す。そのなかに、日本国のすべての人びとをまきこむ。このようなイデオロギー装置を、明治維新から六○年、日本は自力でつくり出したのだ。
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『國體の本義』の恐ろしさは、第一に、それが緊密に連関する概念の体系でできていて、人びとをそこに絡めとることができることだ。人びとの思考はその内部をぐるぐる回って、その外に出ることができない。
 これは、洗脳そのものである。洗脳は、洗脳されるときには、洗脳されているという意識があるかもしれない。しかし、洗脳が完了すると、その意識がなくなる。それはあたかも、催眠術にかかるときは、これからかけますよ、と聞いてそれを意識できるが、かかってしまえば、それが無意識になり、意識できなくなるようなものだ。
 しかしこれは、夢遊病のような状態ではない。人びとは、覚醒しており、意識と理性を働かせ、正しいと思う考えに従い、正しく行動している。その全体が、操作の結果である。操作マニュアル(『國體の本義』)が目の前にあるので、それが操作であることが明らかであっても、それを抜け出すことができない。
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 恐ろしさの第二。『國體の本義』が、世界のさまざまな情報を読み解く「万能カギ」(世界解釈枠組み)の役目を果たし、この世界観が優れているという感覚を与えることだ。
 世界観が「優れている」という感覚は、ふたつの要素によって成り立つ。ひとつは、それが普遍的であって、世界を残らず説明できること。もうひとつは、その反対に、それが特殊(特別)であって、ほかにはない優位をもっていること。この相反するふたつの性質が、そなわっているのである。
 こうして『國體の本義』の与える世界観は、人びとが生命を賭けて悔いない、意味と価値とを提供する。

●皇国主義

『國體の本義』の与える世界観には、名前がついていない。
ある角度から言えばそれは、天皇親政説である。あるいは、皇国史観である。あるいは、皇民教育である。またあるいは、東亜新秩序である。あるいは、大東亜共栄圏である。あるいは、八紘一宇である。あるいは、惟神(かんながら)の道である。…。
 なぜ全体としての世界観に、名前がないのか。誰かがつくり出した信念の体系ではなく、人びとの選択の対象としての信念の体系でもないからである。否応なしに、人びとに押しつけられる。だから、名前がない。名前がないのは、この世界観にとって本質的なことなのである。
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 ではどのように、それは生まれたのか。
 それは政府の、行政指導によって生まれた。
 国体はすでに、存在する。国体をどう理解すればよいかについて、さまざまの理解と混乱がある。それでは困る。そこで、教育の現場において、このような考え方に従うべきだ。そう、行政当局(文部省)が考えて、行政権限をもって、教育現場にその考えを伝達した。現場はそれに、従わなければならない。生徒はそれを、学ばなければならない。この世界観は行政権限によって裏打ちされている。
 そこで便宜のため、『國體の本義』の世界観に、名前をつけよう。「皇国主義」と。
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 行政は権限をもっているかもしれないが、官僚組織である。世界観をうみだしたりする能力があるわけではない。
 そこで実際には、ブレーンとなる学者が集まって、原稿を書き上げる。橋田邦彦(生理学者。第一高等学校校長、文部大臣を務める)ら、当時の有力者が編纂に関わったという。匿名の人びとの合作である。そして、かなりレヴェルの高い著作をつくりあげた。
  (中略)

●洗脳は解けたのか

『國體の本義』の皇国主義は、学校教育を通じて、またあらゆるメディアを通じて、日本の人びとにふりまかれた。それは、完結した思考のシステムとして、人びとをとらえる。
 皇国主義でものを考えると、知的に優位であるような感覚がわいてくる。およそ知識階層がふつうに手をのばす範囲の素材が、残らず盛り込まれているからだ。また、道徳的に優位であるような感覚がわいてくる。日本は世界で唯一の「選ばれた国」なのだ。このように考えることは、正しい。そして、善い。この信念にもとづいて、全力で生き、献身し、国を支えるのは正当なことなのだ。
 昭和の総動員体制は、皇国主義でものを考える人びとによって、支えられていた。
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 戦争に敗れ、この体制は崩壊した。陸海軍は解体され、憲法は改正された。農地解放や財閥解体など、戦後改革が進められた。
 では、『國體の本義』の皇国主義は、どうなったか。皇国主義は、効力を失った。そして社会の表面から消えた。だが、その洗脳は解かれたのだろうか。
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 『國體の本義』の皇国主義が洗脳であったとすれば、脱洗脳をすませない限り、その洗脳の効果は残ってしまう。人びとの思考や行動を支配し、しかも当人がそのことに気がつかない。それが、『國體の本義』の恐ろしさだ。
 では、脱洗脳をするには、どうすればよいか。
 『國體の本義』のテキストと、正面から向き合うことである。その論理構造を取り出し、皇国主義の秘密をあばき、その隠れた本質を意識化することである。皇国主義のOS(オペレーション・システム)が、コンピュータ・ウィルスのように、自分の思考メカニズムのどこかに、巣くっていないかチェックすることである。
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 本書はこれを、課題にする。
 『國體の本義』と対決することは、日本の戦後を、ほんとうの意味で終わらせることである。そして日本を、国際社会の正常なメンバーとして、登場させることである。

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