僕らは教室にいた。と、そこへ先生がはいって来て、いまちょうど三十年が経過したけれど先生のお姿は何も変わっていない。先生が毎年最初の授業で出す映画クイズのその年の第一問は「P.C.L.とは何か」で、三十年前それについての知識が皆無だった者が三十年の間に世界最大の音響機器メーカーに売却されたそのフィルム現像の企業を職場とした経験を持ったどころか業界の総デジタル化によってその業務に実体を失ったいまも会社は自宅近所にその名を残して存在する。もしあれから変わったことがあるとすれば先生と親しく、といってもこちらは相変わらず他の誰に対してより圧倒的に緊張しながらであるが、ともあれ言葉を交わしたりメールを交換したりするような関係を得たことであり、それもこちらが映画監督を名乗り始めたここ十年のこと。そんな関係の最初の話題が長嶋茂雄についてだったのはそれが神宮球場の近くだったせいだろうか。あるいは当時の六大学野球を先生が見に来ていた可能性をこちらが勝手にその路上に感じながらの会話だったからだろうか。
ところで授業の始めのそのクイズで学んだことがこちら側の無知であり同時に無知であることの恥ずかしさであったことは現在大学教育に携わる身にとっては決定的な根拠で、そろそろ大人になろうという年齢の存在に向ってお前たちは未だ何も知らないと宣告するにはあの体験が必要不可欠だったといまにして痛感する。それから二十数年を経た数年前いまでは『映画長話』という書物にまとまった複数回の世間話でも毎回哄笑しつつこちらの無知を思い知らされ続けたのだからいまにして思えばあれもまたスパルタ教育の一環だったのかもしれない。その頃の先生の談話はしばしば「どうして○○は○○なんでしょう」という質問形式で開始された。この質問に答えられなければお前たちに学生を教える権利などないぞと云わんばかりのその厳しい問いに我々が答えることができたとは思えない。アレクサンドル・ソクーロフの『ボヴァリー夫人』のある画面について「どうしてあんなにボーボーじゃなきゃいけないの?」とか「どうしてあんなにブランブランさせてるの?」などといった質問が矢継ぎ早に飛んだがそんな問いに答える準備などあるはずはなかった。しかし考えてみれば先生とは答えではなく問いを発する存在に決まっていて、親しく口を利かせてもらうようになったときの最初の問いも「どうして柄谷行人だけがあんなに面白いの?」という難問だったような朧げな記憶がある。黒沢清の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』では「どうして、と訊くな」と教授は学生に訴えていたにもかかわらず。
三十年前すでに予告され遂に刊行された『ボヴァリー夫人論』のまだ半分も読めていない不肖の弟子はその三十年という時を重みもなくすんなり受け容れる鈍感さだけは十全に養ってきた気がする。先生には今後もジョン・フォード論を初めとしてやってもらうべき仕事が山積している。何より拙作におけるとよた真帆の存在に言葉を費やしてもらわなければならないと考えるのは弟子の鈍感さゆえか。三十年前同級生という名目で御子息の誕生パーティに招かれたその女が偶々妻であるために現在多少なりと銀幕に彩りを与える様を評価していただきたいなどと考えるのも愚鈍な弟子の勝手な甘えに過ぎないか。それが『ボヴァリー夫人』を原作とする映画であればよかったがたぶん無理だろう。仕方ない。ですよね? だから個人的な夢はこの際もろもろ諦めるとしてもだ、たぶん世界一ジョン・フォードを愛する、つまり世界一映画を愛する人間によってその何たるかを記す文書がわれわれの手元に届かなければ誰も納得しない。その「われわれ」が誰を指すかは措くとして。
もっとも先生の一番嫌いな言葉は「納得」だろうが。少なくとも弟子は納得の罠に陥ちまいとして三十年、生きてきた。