ちくま学芸文庫

「ゴダールの『映画史』」、思考の運動について

 本の話をする。
 いままで六十一年生きてきて、たくさんの本を読んできたわけだけれど、当然の如く、あまり面白くない本、がっかりした本もあった。その一方で、優れた本、面白い本、すごい本、ショックを受けた本もあった。その「優れた本、面白い本、すごい本、ショックを受けた本」グループに属する本たちは、どれも立派なものばかりだが、よくよく見ると、「小説として優れた本」であるとか、「評論で面白い本」とか、「ノンフィクション系ですごい本」とか、様々なグループに分類され、またそのグループの中で、「これはあれより上かな」とか「あれはすごく良かったけど、別の作者のあの本も、けっこういい線いっている」という風に、分けられていくのである。ひとことでいうと、どれも、その優れていたり、面白かったりする部分が、「相対的」なのだ。だが、そのどれにも属さない、孤峰のような本もまた、ほんの少しだけ存在している。優れていて、面白く、すごいだけではなく、世界中の他の本たちから隔絶しているような、要するに、「唯一無二」の本。ぼくにとって、そんな本は、片手に足りるほどしかない。たとえば、「ゴダールの『映画史』」だ。
 正式には『ゴダール映画史』(著者・ジャン=リュック・ゴダール)というこの本は、ぼくの中で「ゴダールの『映画史』」というタイトルで登録されている。一般的、というよりは普遍的であり俯瞰的でもあるはずの「歴史」に関する本につけられた「ゴダールの」という形容詞、あるいは所有詞こそが、この本の特徴を、これ以上はないほどに正確に表現している。
「ゴダールの『映画史』」は、なにについての本なのか。とりあえずは、映画に関する本であり、歴史に関する本であることは間違いないだろう。けれども、頁を開いた読者が、そこに発見するのは、「映画」とその「歴史」に関する様々な知識や発言ではない。もっと別の、表現しがたいなにか、いまだかつて読んだことのない、奇怪ななにかが、そこに蠢いていることに気づくはずだ。
 いま、「蠢いている」とぼくは書いたが、その通りなのである。そこには、はっきりとなにかが動いている。動いているとしかいいようのないことをしている。

「私が思うに、子供というのは生まれたときから社会主義者です。子供はなによりもまず、見ることを、自分が見るものに触れることを、自分が触れるものを見ることを必要としています。でも子供はそのあと……子供はそのままの状態にとどまりません。もっとも、年をとり、その老いのなかに、気狂いじみたものとか惨めさといったなにかが残っていれば、その人はまた、いくらか子供にもどります。それに、老人はしばしば子供と仲がいいものです。世界を管理することにかかずらわっている、人類のそのほかの連中が、老人と子供をともにわきに追いやったのです。そしてこれは、私がかなり以前からつくろうと考えている映画の主題です……今はまだだめですが、いつかはつくることになるはずの映画の主題です」

 それは「思考」の運動だ。「ゴダールの『映画史』」の読者は、ただひたすら、ジャン=リュック・ゴダールという、ひとりの映画監督の「思考」を追いかけることになる。唐突に、ある対象が選ばれる。そして、すぐに、その対象についての「思考」は、別のなにか、それに似た対象へと移ってゆく。だが、それもまた、束の間のことで、次の瞬間には、またよく似た対象に、時には、似ても似つかぬ、けれども、ほんとうのところ、どこかに不思議な共通性を持つなにかへと移動してゆく。これほどまでに、純粋で自由で、音楽にも似て、触れることだけ、共に移動することだけで喜びを感じさせてくれる、「思考」の運動の軌跡を、ぼくは、他に知らないのである。

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