『ニーベルンゲンの歌』は古代ゲルマンの英雄歌謡を素材として、十三世紀初頭のドイツの詩人(作者不詳)が英雄叙事詩の形式で作り上げたものである。主人公ジークフリートは竜の血を浴びて「不死身の英雄」となったが、両肩間の一箇所だけは血がつかずに、その急所をのちに悪漢ハーゲンによって突き刺されて暗殺されるという物語である。この英雄暗殺を語ったのが前編であり、妻クリームヒルトが夫の復讐を実の兄弟たちに実行して、一族が滅亡する悲劇を語ったのが後編である。
この英雄叙事詩は完成するや否や好評を博し、手書きで書き継がれていったと推定される。現在、完本・断片を含めて三十数種類の写本が発見されているが、そのうち写本Bが原典に最も近いと見なされ、写本Cは原典成立後に入念に企てられた改作だと一般に認められている。わが国ではこれまで主な翻訳としては、現在も入手可能な相良守峯訳(岩波文庫)のほかに、雪山俊夫訳(旧岩波文庫)と服部正己訳(養徳社、のちに東洋出版)があるが、いずれも写本Bを底本としている。このたび私が新しく翻訳したのは写本Cで、もちろん本邦初訳である。
では、写本Bと写本Cではどこが違うのか。詳細は本翻訳の作品解説を参照されたいが、最も目立った相違点は、写本Bではクリームヒルトの復讐に関してニーベルンゲンの詩人は中立的な態度を取っているのに対して、写本Cの改作者はその復讐行為を亡き夫への誠実な愛によるものとしてほめ称えていることにある。愛しい夫の仇討のために実の兄弟たちをも犠牲にすることについて当時の人々がどのように感じていたかを知る手掛りとなっている点でも、写本Cは存在価値がある。さらに写本Cは全体にわたってさまざまな修正が施されて、前編と後編における悲劇の二重構造がより一層明確になっている。この整然たる悲劇の二重構造の中で、クリームヒルトの新しい中世的な「愛」とハーゲンの古代ゲルマン的な「権力」とが激しく対立しつつ、悲劇が展開していくのであり、中世騎士的な要素と古代ゲルマン的な要素との緊張関係に大きな魅力がある。
もう一つの魅力は、この作品が後世に多大な影響を及ぼして、実にさまざまな作品を生み出していることである。その事実こそ、この作品の奥底にはそれだけの魅力が隠されていることの証左である。この作品に読み取られる「愛」と「権力」の対立というテーマを引き継いで新しいニーベルンゲン世界を構築したのが、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』四部作である。そこでは北欧神話的な要素も織り込まれて、ニーベルンゲン悲劇もさらに重層的なものとなっている。
このような魅力にあふれた『ニーベルンゲンの歌』がこのたび「ちくま文庫」として刊行されたことは、訳者として望外の喜びである。本翻訳の特徴は、現代の読者に分かりやすい言葉を使い、登場人物や地名等のカタカナ表記についても現代ドイツ語に従っていることである。これまでの翻訳では、たとえば、主な登場人物たちはジーフリト、クリエムヒルト、グンテル王、ハゲネなどと中世ドイツ語の表記になっていたが、本翻訳ではそれぞれジークフリート、クリームヒルト、グンター王、ハーゲンなどと、より親しみのある表記としている。
特に英雄ジークフリートの両親ジゲムントとジゲリントはジークムントとジークリンデと表記することによって、ワーグナーの楽劇に接近したものとなったのではないかと思っている。この両者を比較しながら読んでいくと、それぞれの作品の魅力がより一層鮮明になっていくとともに、ニーベルンゲン伝説の奥行きの深さがよりよく理解できることであろう。
『ニーベルンゲンの歌』は他の作品と比較することでもって常に新しく生成していく作品であり、まさにそこに最大の魅力がある。真の意味での古典作品とは、過去に定着してしまった作品ではなく、現在においても生き生きとしていて、しかも未来においても常に新しく生成していく作品のことである。『ニーベルンゲンの歌』はまさにそのような作品であり、末永く読み継がれていくことを期待している。