今から五十数年も前のことである。私は、文学部の学生であった。
当時、文学部に進学ということは、卒業後、働き口などないことを覚悟という意味であった。高校教員の口があればありがたい、といった心づもりであり、もっぱら自分の望む分野の専攻のことのみで頭がいっぱいであった。
近ごろの、大学卒業生の就職率が六九パーセントで大変だなどという話が正論のような考えかたを聞くにつけ、世の考えかたの転変に呆然としている。
しかし、学生時代のあのころ、それこそ学問研究に熱中していた日々、学生ならでは抱かぬ大疑問を発したのであった。
私は支那哲学史を専攻し、わけても儒教古典学を己れの生涯の研究分野と決意していた。当然、まずは儒教概論の諸書を学んだ。それら諸書に共通する考えは、「儒教は道徳論であり宗教ではない」というものであった。
学の初心者であった私は、もちろん、それを素直に受け入れた。しかし、一年も経たぬうちに疑問を抱いたのである。
と言うのは、専攻の演習が始まり、その準備のために儒教の重要諸文献を実証的に検索し苦労して読むこととなったが、あちこちに葬儀のことが出てくるからである。葬儀となれば、宗教が前面にとなるのではないか、とごく素朴にそう思ったのである。
そこで、その疑問をそれとなく専攻の主任教授にたずねたところ、ぴしゃりとこう言われた。「葬儀は習俗の問題だ」と。五十数年前の大学教授の地位は、今日と異なり、大したものだった。学生ごときなど吹けば飛ぶようなもので、それでおしまいだった。
この教授は共産党員という噂があり、私とは肌合いがよくなかった。結局、私は大学院学生生活を追われることになった。「石もて追わる」ということば通りであった。
しかし、運命とは分らぬものである。或る方が私をお拾いくださり、そのお蔭で高野山大学の専任講師として勤務することとなったのである。
文字通り、大学は高野山に在った。そこには空海の開山以来の長い歴史がある。私は、学生を案内役として高野山内をずいぶんと拝観して歩いた。
その中で、最も感動的だったのは、奥の院までの道であった。奥の院には空海の遺体が納められている。真言宗教学上では、空海は今もそこに存生ということになっているが。
奥の院に参詣するには、一の橋という境界を越えて、長い参道を歩く。その参道の両側は、墓、墓、墓である。平安時代以来のさまざまな、そして厖大な墓群である。
或る夜、数人の学生が私のところに遊びに来ていたが、だれかが突然、「奥の院へお参りに行きましょう」と言い出したので、私は学生とともに、奥の院へ向った。その途中、本当に自然発生的にみなが般若心経を読誦し始めたのであった。やがては光明真言「おんあぼきゃべいろしゃの まかぼだら まにはんどまじんばら はらばりたやおん」と。もちろん私も唱和。
それは両側の墓群に対する鎮魂の歌でもあった。私は言い知れぬ感動のままに歩み、奥の院に額ずいたのであった。
このとき、私は確信を抱いた。葬儀、墓、そして死――ここにこそ宗教の本源がある、と。だれが何と言おうと、〈死〉こそ宗教の本質を貫くものであると確信した。
であるならば、葬儀を語ってやまない儒教に、宗教の本質があって不思議でない。いや、死という切り口なくして儒教の宗教性を明らかにすることはできないであろう、とさえ思った。
それから二十数年後、私は儒教の宗教性を追求し、『儒教とは何か』(中公新書)を著わした。もっとも、同書は通時的、歴史的であったので、数年後、共時的、構造的に論じた『沈黙の宗教――儒教』をちくまライブラリーから刊行した。
そしてこの四月、それを相当に修補して、ちくま学芸文庫として再び世に問うこととなった。目的はただ一つ、葬儀・墓・祖先祭祀(先祖供養)等についての俗論(特に大学教員・僧侶・評論家等のそれ)に対する批判のためである。