絶叫委員会

【第121回】表現とコミュニケーション

PR誌「ちくま」11月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 私の肩書は歌人。言葉を使う仕事だ。でも、だからと云って、どんな場合にも自在にそれを繰り出せるわけじゃない。適切な言葉が見つからなくて絶句することもある。
 例えば、年賀状。誰もが普通に書いているあれが苦手なのだ。具体的には、定型の挨拶文の横に、手書きで一筆添える、という作業ができない。

「今年もよろしくお願いします」

 これではわざわざ手書きにする意味がない。もうちょっと何か、その相手だけのための、心に触れるような言葉を加えたい。
 そう願った結果、例えば、鯨井さんという知人に、こんなことを書いてしまう。

「今年は一緒に鯨を食べましょう」

 最悪だ。面白くもなんともない。いろいろな意味で失礼。そのうえ、心にもない言葉なのだ。
 相手の心に触れるような、自然な温かさをもった挨拶ができない。どうしてなのか。考えれば考えるほど変に屈折して気持ち悪くなってしまう。
 年賀状の束を見ると、これ全部にほどよい一言を書くなんてとても無理、と絶望する。でも、父や母や妻はそのハードルを軽々と越えている。むしろ楽しそうだ。この違いはなんなんだ。仮にも私はもの書きなのに。と不思議に思っていた。
 でも、或る時、その理由に思い当たった。私が普段仕事で使っている言葉は表現用のツール。それに対して年賀状に書き添える言葉はコミュニケーション用のツール。両者はまったく別のものなのだ。
 自分が飲み会でのフリートークにうまく参加できないのも、それがコミュニケーションとしての言葉のやりとりだからじゃないか。一人だけ異質な言葉で、自然な輪の中に入れず浮き上がってしまうのだ。
 年賀状よりも、さらに難度の高いコミュニケーションがある。それは男性用のトイレにおける会話だ。
 例えば、知り合いが先にいて、後から入っていった自分がその横に立つ場合、咄嗟に何を云えばいいのだろう。無言で隣に並ぶのは変、何か言わなきゃ、でも、何を?
 ゆっくり考えている暇は無い。だが、持ち時間がはっきりしない。あとどれくらいで相手の作業は終わるのか。訊くわけにもいかない。雰囲気で察知しつつ、その制限内で収まって、且つほどよく親密な話題を探さなくてはならない。
 これはとんでもなく高度なコミュニケーションだと思う。緊張する。にも拘わらず、人々は軽々とこなしてゆく。ほとんど何にも考えてないように見える。もしや、考えないことがコツなのか。私がトイレにいたら、後から入ってきた歌人の佐佐木幸綱さんに「おっ、いたな」と云われたことがある。無意味な言葉なのに、なんだか嬉しかった。

PR誌「ちくま」11月号

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