絶叫委員会

【第163回】はしゃいだ記憶

PR誌「ちくま」5月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 私はいつもテンションが低い。普通にタクシーに乗っているだけで、運転手さんに「気分が悪かったらいつでも云ってくださいね。すぐに止めますから」と云われてしまう。バックミラーの中に心配そうな目が見える。こちらの病状(?)を窺っているのだ。私は元気。でも、元気だということを証明するにはどうしたらいいんだろう。困ってしまう。
 ラジオのスタジオで第一声を発したとたん、他の出演者が一斉にはっとしてこちらを見る、ということもあった。これはラジオに出していい声ではない、というプロたちの危機感の発動だ。しまった。暗すぎた。そう思って、慌てて声を張ろうとする。でも、しばらくすると元に戻ってしまう。声のトーンって、なかなか変えられないものだ。だから、「ラジオ深夜便」という番組の、それも明け方近くの時間帯に出るようになった時は嬉しかった。「眠りながら聴くのにちょうどいい声です」と褒められた(?)から。
 だが、そんな私も時にははしゃいでしまうことがある。「珍しく大きな声を出してたね」と友人の編集者に云われたのは、或る新刊記念のサイン会だった。その時、私は順番に目の前に立つお客さんに向かって同じ質問を繰り返していた。
「お名前は?」
「七瀬です」
 そう答えたのは若い女性だった。
「素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます」
「もしかして、『七瀬ふたたび』の七瀬?」
 なはずないよな、と思いつつ、つい尋ねてしまった。彼女の世代では『七瀬ふたたび』を読んでいる人も少ないだろう。独りよがりな冗談だったと反省。ところが、答えはこうだった。
「はい」
「えっ! ほんとに『七瀬ふたたび』の七瀬なの?」
 興奮のあまり、同じことを聞いてしまった。
「はい」
「そのお名前をつけたのは……」
「母です。筒井康隆のファンで」
「いや、でも、筒井作品にもいろいろありますよね。その中から敢えて『七瀬』を選ぶとは。お母さん、最高ですね」
「ありがとうございます」
 七瀬三部作の主人公火田七瀬は魅力的だが、決して幸福とは云えなかった。その受難の運命を知りながら、自分の娘に名づけるとは。私は未知の女性の意思に感動していた。
「じゃあ、七瀬さんはあの三部作をすべて……」
「読みました」
「おおっ!」
 自分の本でもないのに、すっかり舞い上がってしまった。どうしてこんなにテンションが上るのか、自分で自分が訝しい。でも、だって。七瀬の名を持つ少女が七瀬三部作の頁を開くところを想像すると、興奮せずにはいられない。
「もしかして、お母さんは、僕くらいのお年じゃないですか?」
「はい。生きていたら」
 さり気ない答えが胸に刺さった。そうか、そうだったのか、と思いつつ、名づけのエピソードはいっそう忘れがたいものになった。