『青鞜』発刊の辞
「元始女性は太陽であった」。女性解放運動の先駆者として知られる作家、平塚らいてう(一八八六・明治十九年~一九七一・昭和四十六年)が、雑誌『青鞜』の出発にあたって、創刊号(一九一一・明治四十四年九月発行)に寄せた発刊の辞の題名である。その本文はこう始まっている。引用は、小林登美枝・米田佐代子編『平塚らいてう評論集』(岩波文庫、一九八七年)による。
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。/今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。/さてここに『青鞜』は初声を上げた。/現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。/女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。/私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
発刊の辞とは言っても長い文章で、文庫版で十六頁にわたる。このあと、フリートリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』からの引用や、「天才」をめぐるロダンの言葉がちりばめられ、いま世に唱えられる「女性の自由解放」を超えて、「真の自由解放」をめざすことが、高らかに宣言されている。
女性を「家庭という小天地から、親といい、夫という保護者の手から」解放し、「独立の生活」をさせること。高等教育を授け、「一般の職業」に就かせ、参政権を与えること。そうした通常に唱えられる「自由解放」は「手段」あるいは「方便」にすぎず、それをのりこえた「真の自由解放」を目的として目ざさなくてはいけないというのである。その「真の自由解放」が、すなわち「太陽」としての女性の真正の姿を復活させることにほかならない。
この文章が書かれて百年以上がすぎた現在に至っても、日本社会ではまだ通常の「自由解放」すら、十分に実現されていると言いがたい現状からすると、それを超えた「真の自由解放」を宣言するらいてうの言葉は、あまりに突飛なようにも見える。女性の内にある「潜める天才」を十二分に発揮させることだと説明されてはいるのだが、いかなる状態がこの「天才」すなわち「太陽」の顕現と言えるのか、いささか謎めいている。
実はこの文章を書いたときはまだ、「社会問題や婦人問題」について、書物を読んで十分に勉強していたわけではなかった。そういう驚くべき事実が、らいてうの晩年の自伝には見える。厳密には小林登美枝による聞き書き、いわばオーラル・ヒストリーとして執筆・編集された『元始、女性は太陽であった』全四冊(大月書店、一九七一年~七三年)における回想である。
二十歳代なかばの若い女性たちが五人集まって始めた、女性による女性のための雑誌という初の試みである。慣れない編集・校正作業に奮闘するあいまに、発刊の辞の執筆を引きうけることになったらいてうが、一晩で書き上げたという。「まったくわたくし一人の考えで」書いたと回想しているが、五人の女性たちの、雑誌の刊行にむけたエネルギーが文章に漂う熱気を支えていることは、まちがいない。
ただ自伝のなかで、『青鞜』の創刊について語る章の末尾には、奇妙な一節がある。最初のころの号に、らいてうはエドガー・アラン・ポオの作品の翻訳を連載しているが、それは三年前、作家、森田草平と一種の心中未遂事件を起こし、それがスキャンダルとして世間に報じられたあと、信州の山の麓にある養鯉所で隠棲していたときに、書きためていた仕事であった。そのなかで短篇「黒猫」を手がけていたときのようすを、こう回想している。
「黒猫」を訳しているとき、養鯉所の母屋に大きな尾の長い黒猫がいて、それが音もなくわたくしの部屋の前を通りすぎたりするのを眺めるのは、ぞっとするほど気味の悪いものでした。むろん、猫嫌いのわたくしのそばへ、猫の寄ってくることはありませんでしたが、ほんとうに珍しく胴の長い大きな、真黒な猫でした。
猫嫌いや、ポオの作品と重なったせいもあるとは言え、このときらいてうは、「真黒」な猫の姿に、現実をこえた神秘的なものを感じている。これと同じく、「太陽」としての女性の「潜める天才」もまた、単に頭脳に備わった能力を指すだけではなく、目に見えない世界と直結する感性を指し示しているのではないか。そしてそれは、平塚らいてうという人物がもつ思想の特異さとも関連するように思われる。
東京郊外の原風景
『青鞜』の創刊当時、雑誌の編集は、同人の一人であった物集<もずめ>和の千駄木林町の自宅で行なわれていた。平塚らいてうの自宅も、小学校時代以来、近くの駒込曙町である。森まゆみ『『青鞜』の冒険――女が集まって雑誌をつくるということ』(平凡社、二〇一三年。のち集英社文庫)が指摘するように、駒込・巣鴨・千駄木といった近所に関係者が住みながら、ともに集まって始められた雑誌だったのである。
自伝『元始、女性は太陽であった』にも、らいてうの少女時代の、その近辺の風景が実に鮮やかに語られており、記憶力の豊かさを感じさせる。たとえば、目白にある日本女子大学へ、一里(約四キロメートル)の道を歩いて通っていたときの情景はこうである。当時そのあたりはまだ、水田や森が広がる郊外の田園だった。
猫又坂を下り、青田越しに向い側の森をのぞむと、朝などは遠方の竹林に白鷺がいくつも点々と、とまっていました。大塚の坂を下りながらの眺め、護国寺の赤い門、蒼い蒼い大空、雪の富士、黄葉した銀杏の大樹など――女学生時代の純な心に映った、通学の朝夕の自然の美しさ、その鮮やかさ、のびやかさは、おそらく生涯忘れ得ぬものでしょう。わたくしはこの道を、朝に夕に、新しい世界に生きるよろこびに胸を躍らせながら通いはじめたのでした。
いくぶん内向的だが、学校の成績は抜群で、女性でも学問を身につけたいという希望を、内に強く抱えている少女。それが自伝で語るみずからの肖像である。その少女は同時に、周囲の世界を詳細に見つめ、その奥にあるものまでをも見通そうとする視線を備えていた。自伝の記述は、明治時代後半の東京の風物誌としても豊かな内容をもっているが、それはらいてうの目に映った世界を、そのままに再現しようとする意欲がもたらしたものであっただろう。
さらに二十世紀初頭の、自己とは何か、人間の生きる意味が何か、などといった内面の問題について煩悶する青年たちの傾向が、大学時代のらいてうにも及んでくる。高山樗牛や綱島梁川の著作を読み、キリスト教に惹かれ、やがて臨済宗の寺で坐禅に打ち込むようになるのである。そして女子大卒業の年の夏に、意識の最下層にある真実の自己と出会う、「見性<けんしょう>」を体験するに至った。そうした神秘体験への志向が、らいてうのフェミニズム思想の裏に、しっかりと生き続けることになる。
「見性」とフェミニズム
「見性」体験のもたらした境地は、先に引いた発刊の辞にもはっきりと反映されている。女性の「潜める天才」を十二分に発揮させる「真の自由解放」について、こう語っているのである。
我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する。/私どもは我がうちなる潜める天才のために我を犠牲にせなばならぬ。いわゆる無我にならねばならぬ。(無我とは自己拡大の極致である。)/ただ私どもの内なる潜める天才を信ずることによって、天才に対する不断の叫声と、渇望と、最終の本能とによって、祈祷に集中し、精神を集中し以て我を忘れるよりほか道はない。/そしてこの道の極<きわま>るところ、そこに天才の玉座は高く輝く。
ここで「天才」を強調するのは、偉大なる「天才」の持ち主を崇拝せよという意味ではない。それぞれの女性がみずからの心の奥底に潜む「天才」を、完全に発揮することが、「真正の人」となる「自由解放」の境地にほかならない。この宣言を書いたあとで、らいてうはスウェーデンの女性解放論者、エレン・ケイの著作『恋愛と結婚』を読み、フェミニズムの社会運動・政治運動に踏み出すようになる。だがその活動を支えたのは、心の底にある「潜める天才」を発現させ、みずから「太陽」となろうとする希求であった。
いま現実にある心の動きとしての「我」を遮断し、「無我」の境地に至ることで、「潜める天才」は発現する。だがその境地が「自己拡大の極致」と表現されることに注目したい。参禅と「見性」の経験と並行して、男性との関係が始まり、森田草平との事件にも至った経緯が、自伝には赤裸々に語られている。恋愛もまた、そうした「自己拡大」の境地を得るための、いわば修養の一環なのである。
自伝には、やがて事実上の結婚をし、一九一五(大正四)年に最初の子供を出産したあと、赤ん坊とともに暮らす生活について、「この新しい生命の存在が、家のなかの空気はもちろん、わたくしの心までもこうも変えてしまうものかというおどろき」を感じたと記されている。子供に対する「かぎりないやさしい気持」と「愛らしさの思い」。この体験もまた、らいてうにとっては「自己拡大」としての「潜める天才」の回復であったのだろう。らいてうはやがて、「母性」の国家による保護を主張して、フェミニズムのほかの論客と論争し、支那事変のころには戦争協力の言動を公然と示すことになる。しかしそこに一貫して流れていたのは、みずからの心の奥底に潜む真の自己が、他者の「生命」と合一する境地への憧れだったのだろう。
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