日本思想史の名著を読む

第10回 慈円『愚管抄』

幻の歴史書

 鎌倉時代に慈円(久寿二・一一五五年~嘉禄元・一二二五年)が書いた歴史書『愚管抄』は、南北朝時代に成立した北畠親房『神皇正統記』と並んで、中世日本の歴史思想を示す古典の代表とされている。だが書物としては長いあいだ、広い範囲の人の目にふれることがなかった。
 大隅和雄『愚管抄を読む――中世日本の歴史観』(一九八六年初刊、講談社学術文庫、一九九九年)によれば、その存在は早くから知られていたものの、京都の九条家につながる人々にのみ読まれる書物だったという。十二世紀のなかばに三十七年にわたって摂政・関白を務めた藤原忠通<ただみち>の息子として慈円は生まれた。九条家の始祖であり、京都の朝廷と鎌倉幕府の関係をつなぐ存在として重要な役割をはたした九条兼実も、またその同母弟である。
 この書物が注目されるようになったのは、徳川時代の後半になって学者の歴史への関心が高まってからであるが、本当に慈円の著書であるかどうか、疑問を抱く見解も根強かった。それが慈円の著書として確定したのは、ようやく一九二〇(大正九)年、三浦周行<ひろゆき>による関連書簡の発掘・研究を通じてであった。執筆の時期についても、慈円は比叡山延暦寺に僧として暮らし、天台座主という教団の頂点の地位にまで昇った人物であるから、承久の乱(承久三・一二二一年)の前後どちらの時期に書いたと考えるかによって、叙述の理解も変わってくる。これもしばらく論争の種となっていたが、いまは乱の前、承久元年もしくは二年に書きあげられたという理解が確定している。
 つまりそれだけ、長いあいだ読まれざる古典であった。写本ではない印刷された刊本になったのも、『改定史籍集覧』(一九〇〇年)に収められたのが最初である。現在は、岡見正雄・赤松俊秀校注『日本古典文学大系86 愚管抄』(岩波書店、一九六七年)によって読むことができる。入手しやすい現代語訳として、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫、二〇一二年)もある。
 慈円自身は、みずからが想定する読者について、この書物のなかでどう語っているだろうか。『愚管抄』は全七巻で、神武天皇の時代から慈円の同時代にまで至る日本の通史を記した作品であるが、独特の三部構成をとっている。第一・二巻は、日本の天皇歴代の簡単な年代記。中国の各王朝に関する記述もあり、従来からあった年代記の形式にあわせて、あとで執筆し追加したものと考えられている。実際に慈円自身の歴史叙述を展開する、いわば本文にあたるのは、第三巻から第六巻まで。そして最後の第七巻で歴史の全体をふりかえり、そのなかに働いている「道理」と、王朝が今後とるべき政策方針を論じている。こうした構成にも、いかなる読者にむけて、何のために書くのかという意識が反映されていると言えるだろう。
 第七巻の冒頭では、中国の古典や日本の六国史にはじまるさまざまな歴史の古典を挙げ、それをきちんと学び、そこにこめられた「義理」(正しい道理)を理解する者が「ソノ家ニムマレタルモノ」(前掲『日本古典文学大系86』三二〇頁。以下、引用はこの校注本による)のあいだですら少なくなっていると嘆いている。物知りのふりをしながら、実は古典をろくに読んでいない「イミジガホナラン学生タチ」にむけて、仮名書きのわかりやすい和文によって「道理」がはっきりとわけるように工夫したのだ。そう慈円は宣言している。
 この当時、古典の学問の担い手は、朝廷の政治をとりしきる公家たちであり、その身分と役職は世襲(「家」)によって決まっている。「学生タチ」すなわち学問と政治の両方をやがて担う次の世代の人々に、時代の移り変わりと、その上で現在にとるべき方策について、長い歴史のなかに位置づけて理解しておいてほしい。そうした願いが、『愚管抄』の執筆へと慈円をうながしたのであった。

「道理」のペシミズム?

 慈円がここで語ろうとする「道理」とはいかなるものか。先にふれた箇所では「世中<よのなか>ノ道理ノ次第ニツクリカヘラレテ、世ヲマモル、人ヲマモル事」と語っている。ある一定の「道理」を理解し実践することで、一国の秩序は支えられ、そこに生きる人々の生命は守られるのだ。「道理」という概念が仏教に由来するものなのかどうか、仏教だとしてもどのような思想潮流に基づくのかといった議論は脇におくとして、この後半については、一つの原理に基づいた政治規範と人の倫理を指摘する言説として、珍しい発想ではないだろう。
 しかし問題は、この「道理」が歴史のなかで時代によって変化するものだと述べられることである。それぞれの時代にはその当時の世にふさわしい「道理」があり、その内容は時代によって変わってゆく。そしてその「道理」の変化を導く、言わば大きな「道理」がその根柢に働いているのだ。――このいわば「道理」の重層構造と時代による変化について、慈円は『愚管抄』第七巻で略述を試みている。
 歴史の始め、神武天皇からしばらくのあいだは、「冥顕<みょうけん>和合」して、「道理」がそのまま「道理」として実現する時代が続いていた。ここで「冥」とは、目に見えない働きによって人間の世界に介入し、「道理」の通りに動かそうとする神仏の活動を指し、「顕」とは人間の生き方を意味する。つまり歴史の始めには、人間がみずからの知恵によって秩序を営むようすが、そのまま神仏の意図に沿った「道理」と一致していたのであった。
 そしてその後の歴史は、この幸福な一致が破れ、しだいに人間が自力では「道理」を見いだすことができないように矮小化してゆく過程として描かれる。現代の呼び方で言えば、摂関政治の時代、院政の成立、保元の乱、鎌倉幕府の成立といった時代の画期に応じて、各時代の「道理」は変容する。さらにその時代の変化を支える大きな「道理」は、「日本国ノ世ノハジメヨリ次第ニ王臣ノ器量果報ヲトロヘユクニシタガイテ、カゝル道理ヲツクリカヘ/\シテ世ノ中ハスグルナリ」(三二六頁)というものである。つまり、「冥顕」の距離は時代が下るにつれて広がってゆき、人間の知恵は神仏の意図をまったく理解できなくなる。その結果、天皇もそれに仕える公家や武家も、「器量」の小さな人材しか現われなくなってしまった。
 この大きな「道理」の姿に着目するかぎり、慈円の歴史観は徹底したペシミズムである。かつて「日本精神」の立場に立つ中世史家、平泉澄は著書『中世に於ける精神生活』のなかで、当時の公家たちを支配した精神状況は、徹底した「闇黒の世界」にほかならなかったと指摘した。かつて古代国家にあった力を王朝が失ない、戦乱や疫病によって混乱する世の中で、公家たちは政治への意欲をなくし、怨霊や「物の怪」の跋扈を恐れ、下降史観を唱える仏教の末法思想に支配されるようになった。その一例として『愚管抄』をとりあげ、当時の道徳的頽廃を表わす著作に位置づけたのである。

希望の政治にむけて

 実際に慈円がこの大きな「道理」について考察を深めるとき、その基礎に仏教の末法思想があることは、確かなことであった。またそれは、慈円自身の人生経験からしても重い実感を伴うものであったと思われる。保元元(一一五六)年に始まった保元の乱を、慈円は大きな歴史の画期として位置づけている。ここで日本史上初めて、「王・臣」が入り乱れて二つの勢力に分裂し、「ミヤコノ内」で戦乱を起こすという事件が生じた。それ以降、「日本国の乱逆<らんげき>」の時代が始まって、武家政権すなわち「ムサノ世」も登場したのである(二〇六~二〇七頁)。
 乱の勃発は慈円の生まれた翌年のことであり、その祖父・父・叔父が当事者として関わっている。『愚管抄』第三巻から第六巻までの本論部分の後半を、この保元の乱以降に関する叙述が占めていることからも、慈円がみずからの同時代を、戦乱のあいつぐ衰えた世として深刻に憂えているのは明らかであろう。
 しかし慈円の発想は、衰えた時代なのだから何をやっても無駄だとするペシミズムには向かわない。先に引いた「次第ニ王臣ノ器量果報ヲトロヘユク」という指摘の直後で慈円は、「カクハアレド」たとえば「諸仏菩薩ノ利生方便<りしょうほうべん>」といった働きも「一定<いちじょう>マタアルナリ」と議論を続ける。いかに衰えた時代にあっても、人間が知恵を働かせて「道理」のありさまを見通し、適切な政治を行なえば、神仏の「冥」の働きもそれに応じて恵みをもたらすのである。
 そして実は、『愚管抄』が時代の変化をこえる大きな「道理」として提示するのは、世が衰えてゆくという法則だけではない。王朝交替のあいつぐ中国とは異なって、日本には「君ハ臣ヲタテ、臣ハ君ヲタツルコトハリ」(三四七頁)がしっかりと継続している。天皇と臣下とがおたがいの序列と職掌を守りながら、秩序を運営するというあり方であり、それは、「王胤」が神武天皇の子孫以外には移らないことを支えてきた。そして、摂関家としての藤原氏の地位もまた、その祖先神と天照大神との約束によって支えられ、永続すべきものである。
 天皇家と摂関家とがこの国をしっかりと支えている。保元の乱以降の歴史について、慈円が目撃者の聞き書きや自己の見聞もまじえながら、詳細に語るのは、そのことを九条家などの子孫に伝え、歴史の先例に学ぶよう教えさとす目的を持っていたと思われる。そして武家政権の成立という大事件も、決して嘆くべきでないと説いた。慈円によれば、源頼朝は「朝家ノタメ、君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思候」とみずから語った、「朝家ノタカラ」とも言うべき武家の逸材である。
 院政に対する慈円の評価は徹底して低いが、それとは反対に、鎌倉の将軍家が天皇に仕え、統治の職務を分担する体制は、天皇と摂関家による統治体制を補完するものとして、慈円にとって評価すべきものであった。もちろん公家の全盛期から「ムサノ世」に変わってしまった現実を、嘆く心理もその心の内には働いていただろう。しかしその現実をふまえながら、現時点においてふさわしい「道理」を実践しようとする意識が、将軍家の存在の正当化という大胆な試みを可能にしたのであった。

 

本連載は、PR誌「ちくま」連載分とあわせて、『日本思想史の名著30』(ちくま新書)として刊行中です。

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