思想史研究とみずからの思想を語ること
古典の名に値する著作を遺した思想家は、しばしばその本のなかで、みずから考える思想史の叙述をくりひろげている。西洋では、G.W.F. ヘーゲルが『世界史の哲学(歴史哲学講義)』を著わし、みずからの哲学体系によって西洋の哲学史の全体を描きなおすとともに、その歴史の終着点にみずからの体系を位置づけたのが、典型だろう。日本でもたとえば伊藤仁斎や荻生徂徠は、古代中国から徳川時代の日本へ至る儒学の歴史を、それぞれに再構成することを通じて、自己の思想を作りあげたと言える。
しかし、日本思想史学が学問の一分野としてそれなりの確立をみた現在では、思想の大きな歴史に関するそれまでの枠組を大きく組み直すような仕事は、やりにくくなっている。学術研究としての綿密さと正確さを求めようとすれば、大胆に創造性を展開する余地は、小さくならざるをえない。近代の学問が背負っている宿命のようなことであるが、この本でとりあげた和辻哲郎や丸山眞男は、思想史家であるとともに思想家でもあろうと意識的に試みた、数少ない例に属する。
和辻哲郎の門下に学び、東京大学文学部の日本倫理思想史の講座を一九六五(昭和四十)年から継承した相良亨(一九二一・大正十年~二〇〇〇・平成十二年)の遺した仕事は、和辻の著作に比べて学問上の精度が高まっており、育てた研究者の数も多い。だが、その著作のスタイルは、日本思想史の文献を精読し、その著者と対話するようにして考察を深め、その結果得られた知見を自分の言葉でじっくりと書き記すというものである。その意味で、やはり思想家としての特質を兼ね備えた思想史家として特徴づけることができるだろう。
『日本人の心』は、相良が東大を停年で退官し、共立女子大学に移った二年後、一九八四(昭和五十九)年に東京大学出版会から刊行した著書である(二〇〇九年に増補新装版が出ている)。それまで重ねてきた考察をまとめ、一般読者むけに書き下ろした集大成としての意味をもつと言えるだろう。全八章で、日本思想史の時代をこえて流れる大きなテーマをそれぞれに論じている。相良は日本倫理思想史の通史を著わすことがなかったが、この本はそれに代わる概説書のような位置にある。
和辻倫理学をこえて
『日本人の心』の第一章の題名は「交わりの心」。それは「日本人に、人と人との関係を重視する傾向があることは、すでに多くの人々によって指摘されてきた」という一文に始まり、章末の付記でも日本人の「人倫重視的傾向」にふれ、「かつて和辻哲郎氏が、西洋近代思想の影響をうけつつ「間柄」を重視する独創的な倫理学を形成したのも、伝統的な人倫重視の傾向を反映したものである」と述べている。和辻は、個人がばらばらに存在しているのではなく、常に何らかの『間柄』のなかで行為する存在として人間をとらえ、その立場に通じる「慈悲」や「献身」や「政治的正義」の伝統を日本思想史のなかに見いだした。相良が和辻の思想のそうした特徴を、日本に「伝統的」な「人倫重視の傾向」の一例としてとらえ、同じ立場を意識的に継承していることは、この記述から明らかであろう。
だが、「交わりの心」を論じる内容を見ると、同じ「人倫重視」の伝統を扱っているにもかかわらず、和辻とはまったく異なる論じ方をとっていることに驚かされる。相良がまず登場させるのは、他人との「間柄」を大事にする普通の人々ではなく、西行に代表される中世の仏教者にほかならない。彼らは、むしろ人間関係を否定し、「出家・隠遁」に憧れる人々であった。そうした、むしろ反「人倫」的な傾向の人々が、人と人とのかかわりをどう捉えていたか。そこから議論を始めるのである。
相良はここで、ある秋の日に、西行と周囲の「世捨て人」たちが、草庵に集まって連歌を楽しんでいたようすを、西行の『聞書残集』に基づいて紹介する。彼らが思いをめぐらせるのは各人それぞれの浄土への往生であるから、普通の人々のように、向かい合って温かい言葉を交わすようなことはない。しかしそれでも、おたがいのことを思いあい、背中合わせになって寒さをしのいでいる。
それぞれが徹底した「さびしさ」を自覚しながら、友と一緒にその孤独をかみしめ、分かち合おうとする態度。そうした、孤絶を通じての交流がここでは「交わり」を論じる出発点となっている。それは、はじめから家族や地縁共同体など、何らかの共同性のなかに生きる人間を前提とする和辻の発想とは、かなり異質なものであろう。
おそらくここには、相良の和辻に対する違和感、もっと言えば批判が潜んでいる。そこには、和辻の東大倫理学科での後輩同僚であり、相良の師の一人でもあった、西洋哲学史家の金子武蔵(一九〇五・明治三十八年~一九八七・昭和六十二年)ーー西田幾多郎の女婿でもあったーーからの影響もうかがうことができるだろう。金子は主著『倫理学概論』(岩波書店、一九五七年)で、和辻の名前は挙げないものの、実質的には正面からの批判というべき立場を打ち出していた。
金子はこの本の第五章第二節で「人格」を論じている。そこで展開するのは、「人格」(パーソン)の語源であるペルソナ(仮面=役割)から、個人の人格を、さまざまな対人関係における「役割」もしくは「資格」の束として分析する和辻の方法に対する批判である。すなわち、「地位身分職業などはやはり人格の演ずる役割であり、人格は丁度身体をもつごとく、それらをもつているのであって、それらであるのではない。それらはどこまでも人格が身につけている面である」。つまり、さまざまな役割を演技する身体の奥底にある「内的人格」。そうした「実存」の深部にこそ、「人格の人格としての本性」があると金子は説いた。
相良がこの第一章で「間柄」ではなく「交わり」という表現を用い、communicationという訳語を並記しているところにも、金子の理論との連関が想像される。『倫理学概論』第二章第二節で、人間の倫理が展開する場として最終的にとりあげるのは、「実存的交り」の空間である。それは、人格と人格とが「葛藤」「紛争」を通じて相互に呼びかけ合う「限界状況」において生じるコミュニケーションであった。そこで参照されている理論の一つはカール・ヤスパースの実存哲学であるが、ヤスパースの用いた概念としてのKommunikationが、相良の表現に影を落としてはいないだろうか。同じ関連で、実存哲学の紹介者であった九鬼周造の論文「日本的性格」を、相良が第八章「おのずから」の付記でとりあげているところも、重要な意味をもっているように思われる。
「対峙」と「誠」
『日本人の心』の第二章は「対峙する心」と題されている。とりあげる題材は戦国時代と近世の武士の思想である。ここで、個人どうしの「対峙」としてその思想を特徴づけているところも、和辻の「武士道」論とは対照的と言えるだろう。和辻の場合は、日本の「慈悲」の思想伝統の一環として、武士の主君に対する「献身」をとらえた。それは同時に、主従がともに「政治的正義」を実践しようという理想と関係するものであったが、中世の武士団や戦国大名の家中、あるいは徳川時代の大名家といった人倫組織の内部で、上位者の命令にひたすら忠実に生きることが強調されている。
相良ももちろん、そうした忠誠の純粋さを、武士の思想の特質としてとりあげる。だが同時に、そうした献身を支えている強固な自己意識に注目するのである。すなわち山鹿素行が『山鹿語類』のなかで、武士の理想的な生き方を「卓爾」と表現していることに注目する。それは「抜きんでるさま」を意味する言葉であるが、「他人に支えられて立つのではなく、自らのうちに自らの踏まえどころをもって立つこと」を要請する。武士たちはこうした「卓爾」を理想としてみずからを律し、「独り立つ」ことを標榜しながら、おたがいに「対峙」する高邁な精神を内に育てていたのである。
相良の武士道論の特徴は、こうした武士の「独り立つ」思想が、福澤諭吉や内村鑑三の例に見られるように、やがて西洋の個人主義や権利の発想を受容する基盤となったと説くところにある。もちろん、日本と西洋との思想伝統の違いにも言及してはいるのだが、こうした武士の個人主義とも言える相良の議論には、丸山眞男が論文「忠誠と反逆」(一九六〇年)で示した、武士の思想への関心と共通するものを読み取ることもできるだろう。
しかし、武士の思想にも見られる「至誠」という言葉に表れているような、心情の「純粋さ」の追求に対しては、相良の評価はきびしい。第三章「純粋性の追求」で、その議論が展開されている。そこでは、日本人がよく使う「誠実」という言葉づかいに対して、こんな指摘がある。
われわれは、人に対して「誠実」であることを思うが、ただ「誠実」でありさえすればよいのであって、この誠実でありさえすればよしとする姿勢には、例えば人格の尊厳、人命の尊重の思想は、きびしく言えば介在する余地がないのである。他者に対する心情が純粋であればよいのであって、他者とはそもそも何かという客観的な問いは、日本的な「誠実」からは出てこない。(増補新装版一〇二頁)
こうした「誠実」の問題性は、現代でも日本の言説が倫理や政治を論じるさい、しばしば姿を見せる。心情の純粋さを礼賛し共感する状態をこえて、客観的な「理法」に基づいた人と人との秩序を創りあげるには、どうしたらいいのか。まだまだ現代人は、相良とともに考え続ける必要がありそうである。
本連載は、PR誌「ちくま」連載分とあわせて、『日本思想史の名著30』(ちくま新書)として刊行中です。