謎の朱子学者
京都市上京区の堀川通りを北上し、下立売の交差点を過ぎたあたりの西側に、「山崎闇斎邸址」と刻まれた小さな石碑がある。碑の場所は堀川通りに並行した、一本西の小さな通り(葭屋町通)であるが、朱子学者、山崎闇斎(元和四・一六一九年~天和二・一六八二年)が私塾を開いていた住居は、もともとは堀川通り沿いに建っていたのかもしれない。
堀川通りはかつて大東亜戦争中の「建物疎開」によって幅が大きく拡げられた。堀川の東側(現東堀川通)は幅が狭く、西側(現・堀川通)が広いので、通りの西側の建物が壊されたことが地図を見ただけでわかる。実際に行ってみると、東側には伊藤仁斎の私塾であった古義堂など、古い建物が残っているのに対して、西側に並ぶ建物は比較的に新しい。おそらく堀川通り沿いにあった本来の旧宅跡の表側が、道路拡幅で消滅したため、闇斎邸の碑は一本奥の通りに建っているのではないかと思うのだが、どうだろうか。
いずれにせよ、山崎闇斎の私塾と伊藤仁斎の古義堂とは、堀川をはさんではす向かいの位置にあった。開塾は闇斎が明暦元(一六五五)年、仁斎が寛文二(一六六二)年。それぞれに曲折をへた上での、儒者としての本格的な活躍のはじまりであった。
闇斎の側は、もともとは禅の僧侶になろうとして修行を積んでいたが、土佐の吸江寺(吸江庵)で土佐藩の奉行職(執政)にして朱子学者でもあった野中兼山との出会いによって朱子学へと転向した。その結果、寺を追われ故郷の京都で開塾することになった。仁斎の側は、おそらくは闇斎の著作も読みながら朱子学の修養に没頭したのち、その非を悟って新たな学風をめざした上での再出発である。しかも奇矯とも言えるほどの厳しい教育態度によって知られた闇斎と、おだやかな気風の仁斎。思想だけでなく人格に関しても、まったく対照的な二人であった。
闇斎には、棒で机を叩きながら大声で講義したとか、挨拶をしてきた門人に、なぜその時間を学問修業に費やさないのかと叱りつけたといったエピソードが残っている。しかしその奇矯さは、朱子学の「道」を忠実に学び、その教えの目標である天地と人間社会とを貫く「理」を純粋に実践しようという強い志向の表われでもあっただろう。
闇斎は学問の姿勢として、朱熹の教えの「祖述」を標榜し、同時代の日本の習俗からきびしく自立した態度をとった。たとえば日本では、他家から養子をとってイエを存続させ、家業を続けることが普通に行なわれていた。古義堂の伊藤家も含め、多くの儒者のイエも、養子による継承をまじえながら家業としての学問を続けている。しかし闇斎は、異姓養子を禁ずるのが儒者の道だと言い切った。そして実際に、闇斎には実子がおらず、後妻に連れ子がいたが、その男性を養子にすることもないまま、イエの直系の系統は闇斎で途切れている。
しかしその闇斎が、同時に『日本書紀』神代巻の研究に没頭し、吉川惟足<よしかわこれたり>から神道を学び、みずから神道の一流派である垂加神道を起こした。そのことについて、昭和戦前期にはこんな説明がされていた。闇斎ははじめ朱子学に没頭したが、日本人でありながら異国の教説を学ぶことの誤りに気づき、「晩年」に神道へと帰依した。たとえば宮地直一・佐伯有義監修『神道大辞典』全三巻(一九三七年~四〇年)の「山崎闇斎」の項目はそう述べて、「多くの儒者が皇国を顧みなかった時代に於て、闇斎が神道を唱道し、皇国の精神を発揚したことは多とすべきで、殊に其の熾烈なる信念と気魄とを以て世を導き、人を感化した点に至つては、殆ど他に比儔<ひちゅう>を見ない」と讃えている。すぐれた朱子学者でありながら、その立場を棄て「日本精神」に目覚めた人物という位置づけである。いまでも高校の日本史教科書などでは、朱子学よりも垂加神道に重点を置く形で闇斎の紹介がなされている。
『大和小学』の成立
「日本精神」の立場に基づく平泉澄門下の歴史学者たちによる仕事をはじめとして、闇斎の思想に関する研究は、戦中から戦後にかけて大きく進んできた。近年でも、朴鴻圭『山崎闇斎の政治理念』(東京大学出版会、二〇〇二年)、田尻祐一郎『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社、二〇〇六年)、澤井啓一『山崎闇斎――天人唯一の妙、神明不思議の道』(ミネルヴァ書房・ミネルヴァ日本評伝選、二〇一四年)といった、すぐれた研究書が公刊されている。そうした結果、朱子学から神道へ転向したといった理解は現在では支持されていない。
そもそも闇斎は開塾と同じ年に、伊勢神宮の儀式に関する文章も書き著わし、朱子学と伊勢神道の研究を並行して進めている。その神道への関心は、日本の「古伝承」の存在に注目し、朱子学を基盤とした統一理論によって、それを説明することにあったと考えるのが適切なのである。
朱子学の説く「理」は、この一つの天地を共有する、あらゆる人間社会において、それを支え、その規範となる原理にほかならない。したがって、中国の正史にはない神々の物語が『日本書紀』神代巻に記され、中国の祭祀とは異なる儀式が神社では行われているが、それもまた、普遍的な「理」の具体的な現われなのである。――そうした確信から、闇斎は日本の伝統へと向かったのであろう。闇斎自身は神代巻を真正な歴史記述と考えていたが、現在の研究においては、そのテクストが中国風の概念によって構成されていることが明らかになっている。朱子学と共通する「理」をそこに発見しようとする闇斎の試みも、あながち荒唐無稽とも言い切れないのである。
そうした闇斎の著作は、講義の記録を除けば、大半は朱子学や中世神道の古典を抜粋し編纂したものであり、自身の文章で構成したものは少ない。そのなかで『大和小学』<やまとしょうがく>(万治元・一六五八年執筆、三年後に刊行)は、全編を自分で書き下ろし、しかも漢文ではなく和文で書き綴った、異例に属する著書である。執筆の年に江戸に出て、伊予の大洲<おおず>藩の大名の嫡子であった加藤泰義と会話し、その薦めを受けて書いた書物であった。
題名に言う「小学」とは、朱子学において学問に志す者が、四書五経を本格的に学ぶ前、少年時代に読むべきものとされた教育書を指す。つまりは、日本人の初学者むけの『小学』という意図で、独自に構想したものなのである。その冒頭で闇斎が記す執筆の経緯が興味ぶかい。闇斎は加藤泰義に向かって、嗜むべき古典として『伊勢物語』や『源氏物語』が好まれる日本の風潮をきびしく批判した。これに対して泰義はこう答えた。「小学こそ人のさまなれば、男のみならはんかは、されどまな[真字]しらぬ女は、よみがたかるべし、そんのさまをかなにやはらげよ」(『日本教育文庫』教科書篇、同文館、一九一一年、二五頁。以下、引用と頁数は同書による)。『小学』は人間一般について語った書物であるから、それを習うべきなのは男性だけとは限らない。しかし女性は漢文を知らないので、読みにくいだろう。だから女性むけに、和文でその趣旨をかみくだいて説明するべきだ。
『大和小学』というテクストの成立それ自体が、中国と異なる日本独自の条件を前提としていることがわかる。朱子学と科挙官僚制が密接に結びついた中国では、経書の読者が男性に限られるのは自明の条件である。しかし日本においては科挙が行なわれていないため、そうした限定は根拠がない上に、古来、女性は漢文ではなく和文の書物によって教養を身につける習慣がある。したがって、「好色」な物語文学ばかりを好んでしまう女性についても、朱子学の教養へと導くために、『小学』の趣旨を女性むけに書き直すことが必要だ。――こうした意図自体が、日本の特殊な条件のなかに朱子学の普遍理論を生かそうとする姿勢をよく示している。
「日本」における理
ただ実際に女性がこの書物を読む可能性はさすがに低かっただろうから、実は一般に漢文を読みこなせない初学者のために書き記したという事情を、女性むけという設定に仮託したのかもしれない。しかしいずれにせよ、日本の一般の人々に親しい形で「理」を説明しようという闇斎の問題関心がはっきりとうかがえる。
天地を貫く普遍的な「理」の存在について、闇斎はこう説明する。「見よ、天の広大にして、四時のめぐり、日月の往来、まさしう目のまへの載<こと>なれど、さらにをと[音]もなくか[香]もなくて、人そのしかる所をしることなし、これをのづからなるまこと[誠]のみちなり」(七三頁)。「天」すなわちこの大自然が生き生きと働いているのは、理が「まこと」すなわち純粋に作用しているからである。理は目に見えず香りもないので、常人はそのことに気づいていないだけだ。――この「天」が中国・日本をこえて全世界を含んでいる以上、この日本にも理に根ざした「みち」が原初から働いている。
したがって闇斎の説くところでは、日本のことについて知るためには、『日本書紀』も一種の経書のような価値をもつ。『大和小学』のなかで闇斎は、神武天皇の没後には「三年位むなし」と、三年の空白期間をへて綏靖天皇が即位したことをとりあげる(三五頁)。これはまさしく、理に根ざした正しい葬式の礼に則っている。他方、北畠親房『神皇正統記』によれば、日本に儒学の経典が伝わったのは、第七代の孝霊天皇の時代である(二八頁)。つまり、日本に学問としての儒学が伝来する前に、すでに天地の道に基づく理が人々によって自覚され、実践されていたのであった。したがって、そうした古い時代に生きていた理の働きが、『日本書紀』の神代巻には表現されているということになる。
ただし、闇斎の神代巻に関する理解は、たとえば朱子学の重視する精神修養の方法としての「敬」の和訓である「つつしみ」が、万物を構成する五行のうちの土・金と対応するとし、神代巻におけるイザナギの禊に関する記述と関連づけるといったものである。冷静に考えれば、牽強付会という批判を免れないだろう。だが、闇斎は真剣に、神代巻の記述と神道の儀式のなかに、全世界に通用する普遍的な理の働きを読み取ろうとした。世界にはさまざまな文化が存在しており、一見するとおたがいに異質で、理解しがたいもののように思える。しかし、ある特定の文化の内には、ほかの文化と共有できる価値が、それぞれの表現をとりながら存在しているのではないか。文化の特殊性を認めながら、同時にその内奥に普遍的なものを見いだそうとする思考。現代においても重要なそうした要素を、闇斎の思想の営みからは読み取れるように思える。
本連載は、PR誌「ちくま」連載分とあわせて、『日本思想史の名著30』(ちくま新書)として刊行中です。