「第二の故郷」
『明治大正史 世相篇』は、一九三一(昭和六)年一月に朝日新聞社から刊行された、柳田國男の著書である。そしてその代表作と呼ばれる著書のうちでも、一番の大作と呼べる長さであり、戦後にも何度か復刊されていて、いまでも複数の版が新刊書店で入手可能である。
だがこの本については、ぜひ筑摩書房の新版全集、『柳田國男全集』第五巻(一九九八年)で読んでもらいたい。この本はもともと、朝日新聞社編と銘打って一九三〇(昭和五)年から刊行された叢書、『明治大正史』全六巻の第四巻として世に出ている。第三巻『経済篇』の巻末に添えられた第四巻の刊行予告を見ると、「編著者」である柳田國男の肩書は「東京朝日新聞客員」。当時は編集局顧問論説担当という職にありながら、自宅で研究会を開き、民俗学の研究を熱心に進めていた。
叢書『明治大正史』全体の内容見本に載った「刊行のことば」によれば、「歴史家ならざる新聞人」の手によって、「新たに明治大正を顧みて、そこに現在を貫く未来への展望を試みようとする」企画だったという(前掲の全集第五巻、佐藤健二による解題を参照)。当時は、大学アカデミズムにおける日本近代史研究も、まだ始まったばかりであり、専門講座は存在していない。天皇が代替わりし、新たな昭和の時代に入ったいま、同時代と深く関わりあうジャーナリズムの視点から、近代日本の歩みを総合的に点検したい。そうした『明治大正史』編纂の意気ごみがまた、民俗学という学問の出発と通じるものをもっていたと言える。
そして、柳田による第四巻『世相篇』は、口絵写真を何枚も本文の関連箇所にちりばめ、それぞれにキャプションをつけている。ほかの巻には見られない特色であり、柳田自身の指定による処置だったと思われ、新版全集ではその写真もすべて再録しているから、著者の意図をより十分に知ることができる。
そのうちでも、巻頭に掲げられた「第二の故郷」というキャプションつきの写真が興味ぶかい。おそらくは朝日新聞社が持っていた飛行機から、東京の郊外とおぼしき住宅街を撮った一枚であるが、地図と対照すると、柳田が当時新居を構えていた成城地域ではないかと思われる。道路の形がいまとほとんど同じであり、現在の小田急線、成城学園前駅とおぼしき駅も映っている。
その光景は、たしかによく見れば家々の屋根の形が旧式であり、電車と駅のようすも現代とは異なるものの、同じような大きさの住宅が整然と並んでいる形は、まるで現代の新興住宅地の広告のようである。当時は大正大震災ののち、東京の住宅地が西へと拡大しつつある時期であった。まさに現代と地続きになっている大都市の誕生と、郊外生活の成立の瞬間をとらえた一枚と言えるかもしれない。
柳田が『世相篇』の全巻にわたって強調するのは、明治時代以降、人々が農村から都会へと出て行く「交通」が、容易になり激しくなったという変化であった。第九章「家永続の願ひ」には、「明治の廃藩」によって士族の家がほかの地方へと転出していったことにふれて、こういう一節がある。「それ故に人が一代といふより短い期間に、活気の有る者から順々に離れ去つて、人は次々に其跡へ住み替り、たまたま残り住する者にも、我処<わがところ>といふ感は与へなくなつてしまつた。しかも出て行つた者の大多数も、今はまだ第二の故郷を確定して居ない」。――この言及は、まだ過渡期にあるという指摘ではあるが、明治・大正時代の社会の変化をへて、人々はいまや都市郊外に「第二の故郷」を築きつつある。それは、当時の新興住宅地に住みはじめた柳田の実感でもあったのだろう。
「世相」の歴史という視点
そもそも、歴史の叢書の一巻のテーマに「世相」を選んだところに、大胆な野心があった。『世相篇』の「自序」にも、「実は自分は現代生活の横断面、即ち毎日我々の眼前に出ては消える事実のみに拠つて、立派に歴史は書けるものだと思つて居るのである」という一節が見えるが、『明治大正史』の内容見本に柳田が寄稿した第四巻の予告では、その意図がよりはっきりと述べられていた。ここでは第三巻の巻末に再録された形で引用する。
日本は如何なる国、今はどういふ時かといふ問題は、単に大きな過去の事件だけを、並べて見たのでは答にならない。世の中は我々が忘れたり、省みなかつたりして居るうちに追々に改まつて来たのである。だから此一巻では出来る限り、目で見、耳で聴き、口で味ひ、鼻で嗅ぐやうな的確なる事実に基いて、どれだけ時勢が変り、どれだけ又国柄が残り伝はつて居るかを、明かにして見ようといふのである。我々は既に歴史の参加者では無いか。我々の承認し得ざる歴史といふものが有らう筈は無い。しかも新聞の日々の記録を利用しなかつたら、歴史は尚いつ迄も二三の英雄によつて作られるといふやうな、飛んだ迷信から脱することが出来なかつたらう。
この最後に述べられた、「新聞の日々の記録を利用」するという方法論は、新聞社が企画する歴史叙述という方針と呼応するものであっただろう。だが実際には、新聞記事は現実の一部をしか伝えていないという問題に直面した結果、「現に読者も知り自分も知つて居るといふ事実を、唯漠然と援用する」方法へと切りかえた。「自序」ではそのことに関する苦い反省を語っているために、調子がやや落ちているが、予告の方ではむしろ執筆を始めた当初のもくろみを、積極的に打ち出している。
「二三の英雄」や「大きな過去の事件」によってのみ歴史が構成されるという考えは「飛んだ迷信」にすぎない。この予告が書かれた当時は、一九二八(昭和三)年に明治天皇の誕生日である十一月三日が明治節として新しい祝日となり、同時に戊辰の年の六十周年を迎えたことによって、明治維新の大ブームが歴史学や大衆文藝に訪れていたころである。明治維新に活躍した志士たちや元勲たちのような「英雄」の活躍は、歴史を本当に動かす力ではなかった。「世の中」は、人々が気づかないうちに「追々に」大きく変わっていったのであり、その変化の跡は「目で見、耳で聴き、口で味ひ、鼻で嗅ぐやうな的確なる事実」にこそ現われている。
ここに、英雄中心史観に傾く従来の歴史学や歴史文学に対する、正面からの挑戦を見ることができるだろう。この『世相篇』の第一章の主題は「眼に映ずる世相」であり、その第一節は「新色音論」と題されている。すでに徳川時代の後半からゆっくりと始まっていた社会の変化のなかで、人々の日常の感覚がいかに変容していったか。それを色彩にかかわる視覚と、聴覚との双方に関して柳田は掘り下げる。産業や交通の発展とともに、人々はさまざまな色彩を愛でるようになり、強烈な色の刺戟になじんでゆく。かつてはなかった色や模様が、人々の衣服を飾るようになったことを、柳田は近代史の大きな特徴として挙げる。
また、音に関しても同様に、大きな音に慣れるようになったことを変化としてとりあげるのであるが、同時にまた、強烈でないかすかな音のなかにも注意すべき点があると指摘することを忘れない。「新たに生れたものゝ至つて小さな声にも、心にかゝるものは多い。ある外国の旅人は日本に来て殊に耳につくのは、樫の足駄の歯の舗道にきしむ音だと謂つた。然り、是などは確に異様である。さうした又前代の音では無かつた」。下駄は徳川末期から普及した新しい履き物であり、都会の舗道も明治になってから登場した。しかしその変化を「小さな声」のうちに探ろうとする姿勢が、『世相篇』の独特の魅力を作りあげている。
「公民」の過去と未来
失なわれつつある農村・漁村の習俗や伝説を調べ、書き留める学問という民俗学に関する通俗的な印象からすれば、『世相篇』はそうした旧来の共同体の生活が崩れ去ったことを嘆き、近代化を呪う書物と想像されてしまいそうであるが、実際にはそうではない。柳田の姿勢は、「世相」の変化をそのまま叙述する方針で一貫しており、むしろ新しい現象を「愉快」な出来事として歓迎する箇所も散見される。
このことは、この『世相篇』が、若い民俗学者たちの協力のもとに執筆されたという事情とも関連しているだろう。特に後半にはその傾向が著しい。この本では、女性が職業をもって自立するようになった動向を積極的に歓迎し、「消費組合」や「労働組合」の発展を、かつての村に代わって、人々の「伴を慕ふ心」を満足させるもの――これもあるいは「第二の故郷」となりうると考えていたのかもしれない――として、高く評価している。また、「普通選挙」における地元の「親分」と選挙民との関係を問題としてとりあげ、最終章では「公民」の「生活改善の目標」を論じている。ここで「編著者」として現われる柳田の姿は、なかなかにモダニストなのであった。
しかし他面で、第四章「風光推移」では、明治時代以降、村の生活では人と動物との関係が「やゝ疎遠」になったが、それでも「友としての動物の話」がいまでも語り伝えられていることに注目する。
猿は敏捷であるがよく人の真似をして失敗し、兎は智慮が短かく鼬<いたち>は狡猾でよく物を盗んだ。狐は陰鬱で復讐心が強く、狸も悪者ながらする事がいつもとぼけて居るといふ類の概括も、決して昔話の相続ばかりでは無かつた。誤つて居たにしても兎に角に誰かの実験であつた。
この場合の「実験」は現実の体験という意味である。商品経済や近代的な契約関係が入りこみ、生活が大きく変わった農村でも、人々の感覚のうちには動物との濃密な交流が生きている。これは、程度の差はあれ、現代におけるペットや稀少動物に対する態度にも共通するものが見いだせるだろう。人々の感覚のうちで、社会の変化とともに変わるものと変わらないもの。その両者を微細に見分ける感覚が、この書物の全体にしみわたっているのである。
本連載は、PR誌「ちくま」連載分とあわせて、『日本思想史の名著30』(ちくま新書)として刊行中です。