脇田玲

第11回:人工知能とデザインの関係を古典に探る

いま「ラボ」や「リサーチ」を冠した組織が、アフターインターネット時代のビジョンを作りあげつつある。彼らはスピード感と軽やかさを武器に、新しい技術の可能性を社会に問い続けているのだ。ラボやリサーチをイノベーションの駆動力とする「ラボドリブン社会」とはどのようなものか。ビジネスからアートまで、最先端の現場からラボの新しい姿を解き明かす。

Boston Dynamics社とAltas

Boston Dynamics社が開発した後方宙返りをするロボット”Atlas”が話題になっている。自立で二足歩行し、箱を乗り越え、最後に後方宙返りするその姿は世界中のネットメディアに取り上げられた。思えば、同社のロボットは発表されるたびに世間の耳目を集めてきたのものだ。四足歩行の”BigDog”は、中に人間が入っているのでは? との疑惑とともに、ちょっとした社会現象になった。そこに重ねて、本物の人間が入り込んだパロディ映像までもが何者かによって公開され、予想以上に本家との違いがわかりにくかったことも話題になった。

同社のロボットが話題になりはじめた当初、私は面白半分に眺めていた。おそらく、読者の多くの方々もそうであろう。しかし、BigDogがブロックを咥えて後ろに放り投げるようになる頃には、僅かではあるが、その動きから知的なものが感じられはしなかっただろうか。そして、後方宙返りをするAltasを見た時には、私の思いは確実なものになった。Atlasの動きは十分に知的であり、彼らの運動能力はある種の知能と言ってよいのではなかろうか。

知能というと、一般的には論理や言語の能力を意味する。頭は良いか悪いかのどちらかであり、それゆえ知能は一次元的なもの(あるかないか)として扱われがちである。それに対して、ハーバード大学の心理学者ハワード・ガードナーは多次元知能理論(Multiple Intelligences)を展開している。この理論では、言語、論理や数学のみならず、音楽、身体運動、空間認知、人間関係、内省、自然観察といった能力も知能として扱うべきだと提案されている。心理学の世界ではいくらか批判もあるようだが、Atlasは空間認知と身体運動の能力がなければバク宙できない訳で、その動きに知能を感じてしまった私としては、この理論にはある程度納得している。

さて、今回は人工知能(Artificial Intelligence, AI)の話をしてみたい。多次元知能の視点から現在の人工知能ブームを眺めてみると、もっと多様性や多次元性があってもよいように感じる。さらに、ネットやマスメディアが取り扱う人工知能の話題は技術とビジネスの話ばかりで、いかに役に立てるかという道具的視点が中心だ。人工知能のビジョンには人間とは何かという実存的視点が内在していたはずであり、その豊かな可能性が共有されることなく、このまま単なるバズワードとして消費されていくのはなんとも残念な気がするのだ。


人工知能の古典を読む

今回のコラムでは人工知能の思想的側面に僅かながら光を当ててみたい。多くの分野がそうであるように、思想を知るには古典を紐解くのが一番だ。そして、しばしば、未来は古典から見えてくるものでもあるのだ。人工知能の未来といっても漠然としているので、私が興味を持っている「人工知能とデザイン」という視点から興味深い論考を紹介したい。

Nicholas Negroponte, Towards a Humanism Through Machines, Technology Review, vol 71, no 6, April 1969.(現在は、Achim Menges, Sean Ahlquist, Computation Design Thinking, Wiley, 2011. にも掲載)

これはニコラス・ネグロポンテ(Nicholas Negroponte)によって約50年前に書かれた論考だ。ネグロポンテはMIT Media Labの初代所長であり『ビーイング・デジタル――ビットの時代』(福岡洋一訳、アスキー、2001年)の著者としても知られている。彼はMIT Media Labをつくる以前、同大学の建築学部に所属し、Architecture Machine Groupを率いていた。当時の彼の研究テーマはComputer Aided Design(CAD/コンピュータ支援設計)。1960年代のCADとは、現在のような狭義の設計支援ツールのみを指すのではなく、コンピュータとデザイナーのコラボレーションの可能性に着目し、マシン・インテリジェンスとは何か、それがデザイン行為をいかに変えていくか、という広い視点で実験的な試みがなされていた。その意味で、人工知能とデザインの関係性の考察するには最適な論文の一つだと思われる。

ただし、ネグロポンテの論考には当時のマシン・インテリジェンス研究の専門用語が当たり前のように使われているので、先に前提知識となる別の論考を紹介する。

Warren S. McCulloch, Toward Some Circuitry of Ethical Robots or An Observational Science of the Genesis of Social Evaluation in the Mind-like Behavior of Artifacts, Acta Biotheoretica, Vol 11, No. 3–4, pp. 147–156, September 1956.

(https://pdfs.semanticscholar.org/bdf5/91d4a1b4bd70e6b15f286ee814486a0863af.pdf)

これは神経生理学者のウォーレン・マカロックによって約60年前に書かれた論考だ。マカロックは論理学者・数学者のウォルター・ピッツともに形式ニューロンを提案したことで知られている。形式ニューロンとは世界初の人工ニューロンだ。これは、脳内のニューロンを物理的にクローンするという意味ではなく、ニューロンの仕組みを模倣する計算的モデルという意味なのだ。そして、人工ニューロンはニューラル・ネットワークの基本となる構成単位でもある。その意味で、マカロックは現在注目を集めているディープ・ラーニングの素になる最初の一歩を踏み出した人工知能研究の偉人なのだ。


3種類のマシン

この論考の中でマカロックは3種類の仮想のマシンを比較している。一つ目は、ゲームをプレイしたがるマシン。そしてプレイが始まるとそれに勝ちたがるマシンだ。このマシンには、プレイをしたがること、そしてプレイが始まればそれに勝つために全力をかけることが回路として組み込まれている。しかし、彼は世の中に存在しているゲームの種類もそのルールも知らない。ただそれを学ぶために何をすべきかを学習することはできる。彼は完全に自由な存在だ。創造主である私たちが彼にどのようにプレイすべきかを教えることもないし、彼が不適切なプレイをできないように作っている訳でもない。マカロックはこのようなマシンをEthical Machine(倫理的なマシン)と呼んだ。ここでのEthics(倫理的)とは「社会的な交流を通して成長する行動の特性やモードのこと」で、「その集合体の目的にかなうもの」でなければならない。

二つ目のマシンはMoral Machine(道徳的なマシン)。このマシンには事前にゲームのルールがプログラムされている。天の啓示を受けて宗教に没頭するようにルールに従う。もしくは、伝統を重んじてそれに沿って行動するようなマシンともいえる。もし管理ルールがプログラムされていなければ、彼は自由な存在だったはずだ。

三つ目のマシンはVirtuous Machine(徳の高いマシン)。このマシンにはあるゲームのルールがプログラムされた構成要素だけが埋め込まれており、そのルールに沿ってゲームをプレイすること「しか」できないマシンだ。彼は全くもって自由な存在ではない。

これら三つのマシンは、基本的には同様に賢く、同程度にゲームに勝つことができる。Ethical Machine(倫理的なマシン)が他の二つに対して圧倒的に有利な点は、彼は囲碁のプレイを学ぶことができ、チェスや他のゲームにおいても、その社会において受け入れられるモード(つまりEthics[倫理])を見つけることができることにある。

Ethical Machine(倫理的なマシン)のモデルを用いて、マカロックは人間の心に類似した振る舞いをどのように回路化できるのか、そしてどのように評価しうるかを論述している。その詳細にはここでは触れないが、ネグロポンテは、マカロックのEthical Machine(倫理的なマシン)を典型事例として挙げ、それと同じように空間をデザインしたがるマシンであるArchitecture Machine(アーキテクチャ・マシン)という概念を提案している。


異種間コミュニケーションとしての機械と人間の対話

それでは、ネグロポンテの論考” Towards a Humanism Through Machines(機械を通じたヒューマニズムへ)”の内容に移ろう。それは「マカロックが考案したEthical Robot(倫理的なロボット)のような機械を使うことで社会がどのように変わっていくかを考えてみよう」という文章から始まる。そして、コンピュータによるデザイン支援には以下の3つのアプローチがあると述べている。

1. 現在の手続きを自動化し、高速化し、コストを削減する
2. 現在の手法を機械の仕様に合わせて変化させる
3. 相互に進化可能なプロセスを導入することで、機械と人間が相互に努力し、成長していく

1つ目は普通の人が機械にもとめる関係そのもの。2つ目は新しい技術と向き合う時にしばしば要求されるプロセスだ。例えば、業務プロセスをIT化する際にはコンピュータの仕様や独特の作法のようなものに合わせざるを得ない事態がしばしば生じるものだ。

そして、3つ目にネグロポンテは可能性を感じており、彼のマシン・インテリジェンス像もそこから見えてくる。まず「人間」と「機械」は全く異なる種属であり、人間は「デザイン」、機械は「計算」という行為をする存在と仮定している。そして、この異種間コミュニケーションをいかに親密にしていくかがとても重要な課題になる。この関係性は、スマートでリーダーシップを持ったマスター(主人)と愚かで追従することしかできないスレイブ(奴隷)の関係ではなく、両者が対等で、お互いに自己改善可能な関係性であるといえる。

このような関係を構築するには、デザイナーと機械の一対一の対話が必須になる。それは以下に述べるような種類の対話になるだろう。あなたが言葉が分からない異国の地に一人、誰の助けも望めない状況で取り残された場面を想像してみよう。運良く、とある原住民と遭遇した時、あなたは手の動きや表情、相手には全く伝わらないであろう自分の言葉を介して、なんとか意思疎通を図ることになる。相手はそれを眺め、少しでも理解できる要素を見つけようとし、それを自国の言語に変換しようと試みるだろう。あなたはさらにそれに応答し、パントマイムのような対話が相互に展開されていく。これは相互の努力によって初めて成立する言語といえる。その後、あなたが同じ原住民に再び出会った時、そして何かを相手に伝えようとした際に、両者には対話の根のようなものがすでに成立していることに気がつくはずだ。しかし、このやり取りはそれを見つめている第三者にとっては、全く理解不能なものなのだ。ネグロポンテが目指したデザイナーと機械の対話とはこのようなものだった。

それゆえ、機械にはデザイナーの自然言語とデザイン言語を徐々に理解していける仕組みが必要であり、デザイナーは機械と対話するためにプログラミング言語や装置の癖に寄り添っていく必要がある。この対話を実現するためには高度な自然言語処理が必須だ。現在の技術では、沈黙やちょっとした表情の変化はセンシングができず、できたとしてもノイズとして切り捨てられているが、そこにこそ親密な対話の重要な要素が含まれていることを忘れてはならないだろう(その意味で、Amazon AlexaやGoogleアシスタントといったAIアシスタントはまだ幼年期の入り口にある技術なのかもしれない)。

また、ネグロポンテは機械とデザイナーが全く異なる種類の存在、お互いにとって異質な存在であることが重要だと考えた。つまり、デザインにおけるマシン・インテリジェンスとは、高度なデザイナーの知識を実装することではなく、むしろ人間が思いつかないような視点からツッコミを入れてくれるような存在であることが重要なのだ。例えば、低価格な住居をデザインする仕事があるとする。デザイナーが形状をデザインしている途中で、機械は「その柱の太さだと予算オーバーになるよ」とか「電装系と不整合が生じちゃうじゃん」といったツッコミをその都度入れてくれる存在であるべきなのだ。そのためには、精密な形状処理をしつつも、電装系CADやプロセスCADとのリアルタイムの連携が必要であり、細かい形状操作の各ステップでインクリメンタルにツッコミリストを再構築するようなシステムが求められるだろう。

デザイナーの特異性を徐々に理解しながら、そして文脈の変化に応じながら相互の創造的な干渉を続けていくことで、「あるデザイナー」と「ある機械」の両者の存在によってのみ、はじめて可能なデザインプロセスが構築されていく。これこそがデザインにおける機械の知的行動の発端だとネグロポンテは考えた。そして、そのようなデザインプロセスを実現する機械のことをArchitecutre Machine(アーキテクチャ・マシン)と名付けた。


マシン・インテリジェンスとは何か

この論考はマシン・インテリジェンスとは何かという話で締めくくられている。知能を機械でエミュレートするのはとても困難な課題だ。なぜならば、知能は時間、場所、文化といった文脈に極度に依存しているからだ。そして、リアルな世界を見つめるには非常に秀逸なセンサーや処理系も必要になるのだ。さらに、文脈の変化によって意味が変化することに気がつく必要があり、それこそが機械が「知的である」ということだとネグロポンテは主張している。

つまり、マシン・インテリジェンスとは、成熟さ、賢さ、知識といったものではなく、例えばジョークを理解できるかという点で判断されるべきものなのだ。ジョークはオチによって面白い話になるのであり、オチは文脈によって180度転換するものだ。

また、ネグロポンテは、(当時の)人工知能の専門家が、チェッカーや将棋といった箱庭的な「ゲーム」をプレイできるコンピュータに着目しがちであり、そこからマシン・インテリジェンスの理論を捉えようとする傾向を(やや批判的に)指摘している。なぜなら、建築やデザインに代表されるような実世界の問題は「決まったルールと限定された要素」から構成されるチェッカーゲームよりもむしろ「文脈によって決定される」ジョークに近いものであり、不思議な国のアリスに登場する赤の女王(それは社会であり、技術であり、経済でもある)がルールを変え続けるクリケットゲームのようなものだからだ。


以上が、ネグロポンテの論考の概略だ。途中少し私の考えが入った箇所があるが、それは括弧付けにして表記した。

2017年現在、チェスや将棋を題材として、人工知能と人間の優劣を決めようとする実験が世間の耳目を集めているが、それとは異なる機械と人間の共生関係がネグロポンテの論考からは見えてくる。私には適者生存的な「競争」よりもガイア仮説的な「共創」の方が魅力的な関係に思えてならない。

そしてもう一つ私の心を捉えたのは、知能とは決められたルールの中での最適化問題ではなく、むしろ変化し続けるこの世界の中で「良く生きる」ために必要な能力と捉えるべきという視点だ。この視点を得た上で、もう一度現在の人工知能ブームを客観的に見つめてみることは無意味なことではないだろうし、しばしば世論にあがる教育のあり方にも活かせる部分が幾らかあるように思う。

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